通夜会場から出てきた弔問客で受付前がごった返す。弔問客はどうしても通夜の方が多くなる。俺自信も弔問に行くとしたら夕方行われる通夜だ。それに今日は祝日でもある。
 その中に、日隈、佐藤、のりみち、野方、平川の姿を認めることはできなかった。豊田、手島は見知った顔の奴らと語り合っている。俺は勿論蚊帳の外だ。
 ――車の中で一服でもして来るか。ほいで見計らって小倉に戻ろう。明日も来ねばならない。

 と、一人こちらに向かって来る奴がいる。後で気付いたが、別に俺を探して歩いて来た訳ではなかった。偶々、手前の広い駐車場ではなく、こっちの狭い駐車場に停めていただけだ。だが、勘違いした俺は車を出て奴を迎えてしまう。やっぱり嬉しかったんだろう。

 俺もいつ認知になって記憶を失うか分からない。いい機会だから、日隈との思い出話を語っておこう。彼とは高校三年のとき同級だった。明るい奴でクラスのムードメーカー。リーダー的素質もあり、体育祭では団長を務めた。彼の提唱で卒業文集、「べらべら」も製作した。その中で女子に告るパフォーマンスまで見せてくれた。
「柳井〇子さん好きでした!」は、さすがに日隈にしかできない芸当だと感服した。

 大学は仲良く浪人、よくつるんでセブンブリッジに興じた四人の中では、俺と日隈だけが浪人、しかも二浪で国立のSG大学に進学した。浪人中は、俺が交友関係を断って宅浪したこともあり、交流はほとんどなかったが、気分転換に四人の中の一人、現役でKTKYSY大学に進学した田尻の家に行ったおり、一度だけ顔を合わせた。
 そのとき感じたのは敵意に近かった。何故かと言うと、俺が最も嫌っていた同窓生、矢原とつるんでいたから。彼は不幸にも同窓生の中で一番早く、四十代半ばでガンでこの世を去ったが。
『何、国立大学目指しとるもんがこげなところで油売りよるかちゃ!』

 日隈だけ二浪に突入したときには、今度こそ受かってくれよと俺にも奴を思いやる余裕が出来た。再びつるみだしたのは、彼がSG大学に通い出した、俺がSNG大学二年のときだ。
 おっと思い出した。日隈の二浪目、合格の景気づけにと、俺と還暦にガンでなくなった今村、豊田、同級生女子の竹廣さんと柴田さんの六人で天草五橋にドライブに行ったな。おっと、もう一人女子が居て七人か。その子の名前、分からない。写真には写っている。
 車はTYTの親父のブルーバードと今村のボロいミニカバンで。竹廣は古風な顔立ちですらっと背が高くいい女だった。柴田はTGRが告って振られた女子だ。確か彼女はTYTが好きだったような記憶がある。

 俺と田尻は車の免許取得が遅かった。四人の中で一番早く取ったのは、ランク的にはそう高くないが、現役でKYSYSNGY大学に進学した豊田だ。次が日隈、車は親父のトヨタKP61・スターレット。日隈が大学生になってよくつるんだのは俺と小倉から時折帰ってきていた田尻だ。豊田は博多豊前屋でのバイトが忙しいようだった。
 屯したのは国道34号線ラッキーパチンコの対面にある喫茶店、サンロード。用もないのに集ってはダベった。俺がいつも注文したのはハムサンド。
 四人の中で彼女がいたのは豊田だけ。バイト先の博多豊前屋の店員、聖子ちゃんだ。会ったことはない。当時松田聖子が圧倒的な人気だったから、名前が同じということで俺の脳に強烈にインプットされた。

 彼女もいないムサい男三人、台風接近中の夏の夜、何となくサンロードに屯っていた三人、「志賀島行ってみゅうや。浜に女が居るかもしれんぞ」と俺。
「こげな台風んときに浜に来とる女なんて居るんかのう?」
 とは言いながら話が纏まった。日隈のスターレットでそそくさと出掛けた。やっぱ青春の志賀島、お見逸れしました。夜、しかも雨と台風風にも関わらず、ちゃんと水着姿の女の子数人、浜できゃっきゃ戯れてました。女子に声を掛ける勇気もない男三人、ただ眺めるだけだった。
 あるときにはただ車を出して福岡の生の松原の海浜道路を流した。カーラジオから流れてきた曲は福岡出身のロックバンド、シーナ&ロケットの「夢ドリーム」

 俺が新卒で小倉豊前屋に就職して鳥巣を離れてからは日隈との交流は途絶えた。俺がは河岸を変えたから。時々鳥巣に帰ってきたときは成澤の家に入り浸った。
 日隈の情報はもっぱら田尻を通して齎された。彼が甘木のKRNビールの工場に就職したこと。上司と折り合いが悪く辞めたこと。鬱で家に引き籠って廃人の如くなっていることなど。

 俺は日隈に感謝してもしきれないことがある。俺らが高校三年のとき、佐賀国体が開催された。オイルショックの不況の煽りを受けて、佐賀県は予算節約のため、参加チームの民宿を推進した。そこで日隈の家が選ばれ、徳島県阿南市の富岡東高校の女子バレーボールチームの宿泊所になった。奴は数多くの友達の中から、俺と田尻と豊田を歓迎会に呼んでくれた。
 豊田を除いて、女っ気が全くなかった俺たち三人が舞い上がったのは想像に難くない。俺ら四人と宿泊した女の子たち、互いに手紙を交換する約束を交わした。俺の相手は愛称、ビッケだ。
 浪人日記でも書いたが、ここで田尻がスラッとした長身の美人、ミチに恋をした。何度も書いたが、田尻は小児麻痺で右足が無茶細く、勿論ビッコをひいている。その身体でミチに恋をしたことに俺は驚きを隠せなかった。

 田尻は一念発起、希望の大学にも合格した翌年、一人で徳島県の阿南にミチに告りに行った。本当に自分の言葉で告ったかどうかは、本人に直接聞いたことはないので分からないが、それらしきことはしたようだ。
 翌年、俺も無事大学に合格、日隈は二浪目にはいったため仕方なかったが、俺と田尻と豊田の三人で阿南に遊びにいった。使った夜行列車は急行・阿蘇。十代最後の親友同士の四国旅行だった。
 泊ったのは愛称・浜さんの家、農家だったかどうかは覚えていないが、結構大きな家だった。女子の家に堂々と宿泊するなど、今思うと豪く大胆なことをしたのもだと自分でも驚く。段取りを付けたのはミチと交流を持っていた田尻だったと思う。
 俺と豊田は田尻に気を利かせて、ミチと二人っきりにしてやったりしたが、話が弾まなかったようで、何か二人はよそよそしかった。本当に田尻の奴、ミチにちゃんと気持ちを伝えたのかと俺は疑問を持った。

 浜さんの家にあったのは古いカローラだ。夏でもあり、二泊三日の旅行は雨に祟られることもなく順調に消化していく。免許を持っていたのは浜さんと豊田。人数は俺と豊田、田尻、浜さん、ミチ、幸の六人、勿論定員オーバーだが、誰も気にしない。おおらかな時代だった。高知県の室戸岬まで足を伸ばした。このとき、俺も免許を持っていたらと羨ましくて堪らなかったが、足のこともあり諦めていた。
 俺らの夜の歓迎会にはビッケたちも集まってくれた。このときヒットしていたのはアリスのチャンピオン。二階で聞いていたらミチもやって来て、二人っきりで、どきどきしたのを覚えている。
 
 そして、その翌年の秋、返礼の意味で浜さん、ミチ、サチの三人が鳥巣に遊びに来てくれた。宿泊は勿論、日隈の家だ。彼も無事大学に合格し、大手を振って遊べる。向かった観光地は阿蘇。俺、日隈、田尻、豊田、何故か田尻の弟と、女子三人の総勢八人。車は二台必要だ。一台は豊田の親父さんの810のブルーバード、もう一台は俺の親父の中古で買ったチェリーFⅡだ。俺が親父に頼み込んだ。あまり言い顔はしなかったが。
 生憎の雨模様だったが、阿蘇には久留米から、国道210号線、212号線、松原ダム杖立温泉経由で向かったと思う。
 松原ダムを越えた辺りにうどん屋があって、ここで昼飯にしようと車を止めた。このとき、田尻のアホが、バスが近づいてきているのに気付かず不用意に後席ドアを開けてしまい、バスの土手っ腹に大きな傷を負わせてしまう。俺の親父の車にも。ほんと、バカな田尻のお陰で俺は親父に合わせる顔がなかった。後始末は親父が保険でやっただろうが、チェリーの修理は親父の自腹だ。この頃、車両保険なんか掛けていないから。

 このとき、田尻とミチが事実上破局した、というより付き合っていた感じはなかったが。俺らはミチが田尻の告白を受けてOKしたものと思っていたが、事実はどうも違っていたようだ。
 足の悪い田尻は俺と同様、女子に対して免疫がない。俺は女子の前で格好付ける、洒落るということは意識していたつもりだが、田尻は全く違う。好きな女子の前でも平気でジャージだ。
 今回わざわざ鳥巣の果てまで来てくれたミチに対する一片の心配りも感じなかった。その結果、ミチの、「ウザい、あっち行って!」みたいなニュアンスの言葉に繋がったのだと俺は思う。二階の日隈の部屋に居た俺らはミチの冷たく言い放ったその言葉に凍り付き、あぁ二人はもうダメなんだなと悟った。勿論、田尻本人には分かり過ぎるくらい明瞭な拒絶の意思表示だった。

 

 2020年5月11日・2024年3月28日修正