俺は中村晃子の「幻の湖」ならぬ「幻の池」をずっと心で探していた。幻の池があったと思しき場所は、長崎県佐世保市猪町町の宮田ヶ原、音質の悪いトランジスタラジオを通して聞こえてきた曲は当時ヒットしていた流行歌、「ケメコの歌」
 
♪きのうケメ子に会いました♪
♪星のきれいな夜でした♪
♪ケメ子と別れたそのあとで♪
♪小さな声でいいました♪
♪好き好き♪
♪僕はケメ子が好きなんだ♪
 
 この記事を書いている俺は昭和33年生まれの58歳、生を受けた故郷は猪町町、炭鉱華やかなりし頃は今は昔、人口は減りに減って当時6千人。でも、栄えていた頃の名残か、町内に小学校は三校、中学校は二校あった。俺が通ったのは町の東部の猪町小学校、各学年大体二学級で全校生徒は300人くらい。戦後20年、国民が総じてまだ貧しかったこの時代、親父が国鉄職員で兄弟三人の俺の小遣いは一日10円だったから、おやつとして100円分のお菓子が買える遠足は本当に待ち遠しい学校行事だった。
 この猪町小学校、毎年、春と秋に二度遠足があった。目的地は三ヵ所、近い順に三岳、宮田ヶ原、馬岳だ。三岳と馬岳は成人して大人になっても場所が特定できるのだが、宮田ヶ原だけは霧の中だった。
 強烈に耳に残っているメロディーは「ケメコの歌」
 ネットが一般的になった現在は聴きたいと思えばいつでも可能だが、十数年前までは有線でリクエストしても曲のストックも無い始末。勿論、ラジオから偶然にも流れてくることは皆無。
 
 小学生だった俺の記憶に残る光景。全校生徒で町を貫くたった一本の県道を猪町川に沿って歌ヶ浦方面に向かって歩き、田中の辺りで徐に深い森林に分け入る。高い杉の木に囲まれた暗くて狭い杣道をてくてく長い列を成して歩く。暫くしてぱっと視界が開けた、と思ったら見渡す限りの草原が眼前に。草原の中央には目立つ一本の大きな木と透明な水を湛えた背丈くらいの深さの円形の池。そうここが幻の池と草原、宮田ヶ原。
 
 俺は中学一年で家族と共に猪町を離れ、定年後、親父は猪町に戻って家を建てた。里帰りする度にふっと脳裏に浮かぶ風景は宮田ヶ原の草原と池。
 5年前亡くなった親父に訊くも、「さぁ、もう林にでも変わっとんやないか」
 高台の実家から眺めると、山塊が視界を遮る。日の出山と呼ばれていて、猪町小学校の校歌にも歌われていた。あの山を越えたところやったような?
   それが今年ひょんなことから解決の糸口が見つかった。ふと、ネットで宮田ヶ原を検索したら、口の里・宮田ヶ原池と出てきた。そうだ、猪町は町を南北に山塊が貫く。なら、山の向こうは口の里だ。グーグルの地図で確かめると、歌ヶ浦から一本の林道があって宮田ヶ原池まで伸びている。ここだ!ここに違いない。わくわくしてきた。俺はまだ見ぬ宮田ヶ原に夢を膨らませる。どうか、あの夢の景色が広がってますように。
 
  俺は佐世保に住む兄弟二人と縁を切った状態だ。必然的に親類とも会いたくない。約4年間、鳥巣から西には足を向けていない。死ぬまでずっと猪町の土は踏まない覚悟だった。しかし、この11月、俺はついに踏み切った。ここ十数年、辞めたくて辞めたくてしょうがなかった34年間勤めた糞会社に引導を渡してやった。すると、俺に心境の変化が起こった。
 嫁に、「親父とお袋の墓参りせなならんわ」
 嫁は二つ返事で、「行こう行こう。お世話になったお父さんに退職の報告に」 
 出立は11月6日。猪町に唯一のホテル、AZに予約を入れた。もう、俺は自由。時間に縛られることはない。なら、高速など無用の長物だ。小倉を朝8時に出てのんびりと一般道路を走る。
 
 着いたのは何と午後3時、先ずは親父とお袋の墓参りだ。田舎だから、墓は実家から1キロくらい離れた山野の一角にある。「墓地、埋葬等に関する法律」が制定される以前に作られた「みなし墓地」と呼ばれる集落の共同墓地だ。墓誌には親父の横にお袋の戒名、没年、享年が金字で刻まれていた。水鉢の水を新しく入れ替え、左右の花立に小倉で購入した花を生けた。中台にも、どら焼きと親父が好きだった缶ビールを供えて心から手を合わせた。
 お袋には俺の勝手な思い込みと非難されても仕方ないが、兄弟の確執から葬儀に参列できなかったことを深く詫び、親父には34年間勤めた糞会社をやっと退職できたことを報告した。
 お供え物をそのままにして立ち去ろうとしている嫁に、「おい、置いとったら拙いぞ。糞弟に俺らが来たっちバレてしまう」
「そうやね」と嫁は俺の意向を直ぐ理解してくれた。
 
 墓参りを終えた俺は嫁を乗せて歌ヶ浦方面へ。視界に懐かしき船ノ村のバス停が。ここも明日探索しなくては。さて、まだ亡くなったお袋の実家はちゃんと残しているのだろうか?
 俺が小学生の頃はこの時期、船の村のお袋の実家にはムベがたわわに実った。このムベが食べたくて10月31日を心待ちにしたものだ。どうして31日か?というと、半世紀前に亡くなった祖父が31日をムベの解禁日に指定していたからだ。俺たち孫はそれを頑なに守った。一度だけ隠れて食ったことがあるが、爺さんにこっぴどく怒られた。杉の木に巻き付いていたブランコ遊びも出来る大きなムベの蔓だが、爺さんが亡くなって暫くして、無慈悲にも、まだ生きてるのか分からないが、伯母に叩き切られた。このときは俺は伯母を相当恨んだ。今でも恨んでいる。
 
 船の村のバス停を過ぎて暫く行くと右手に林道が。ここが入口に違いない。俺は勇んで車を入れ込んだが、道が二手に分かれ、右の方には進入禁止のバーが設置されている。なら左の道しか行けない。
 ここで俺は躊躇、四駆でもない普通の軽だから途中で何かあったら拙い。Uターンする箇所はあるだろうか?8月末の日田へのドライブ、距離優先のナビの通りに行ったら、豪雨に剥ぎ取られたアスファルトに地割れ、ビビって結局引き返した。そのトラウマだ。
 嫁も、「ここ入って行くん?」と不安顔。
 躊躇う俺に追い打ちを掛けるが如く、もろに嫌な顔で、「どうしても行くんね?危ないよ。それに今日の目的はお墓参りやったやろ」
「アホか、言うたやないか。宮田ヶ原捜しに行くってよ。せっかくこげな九州の西の果てまで来たんによ」
 すると前方から軽トラックが。
 ――何か、車走って来よるやないか。ということは口の里から登ってきたっちゅう訳やな。
「行くぞ」と俺。
 
 深い木立の中をナビを確認しながら慎重に走った。結構入って行ったと思う。すると視界が開けた。池がある、と言うより猪町町に数か所ある堤と同じ造りの人口池だ。ここが宮田ヶ原池?荒地が広がっている。右方に棚が整然と並んでいる。確か、入口の看板に藤棚があると書いてあった。俺は車を停め、嫁を車内に残して下りた。一応、折角来たからと写真を二枚とった。
 幻滅だ!本当にここが妄想し捲ったあの宮田ヶ原ならもう二度と来ることもない。50年前、あの美しかった宮田ヶ原が年月の経過とともにこうなった?いや考えられない。初めからこうだったのだろう。小学生だったから勝手に美化して脳裏に収めたんだろう。日本の西の果ての忘れられた町のこと、こんなものだろうと諦めて俺はUターンして県道に戻った。
 
 時刻はまだ夕刻、ここまで来たらツツジの長串山に寄って帰るか。ここも4年以上ぶりだ。俺は20数年前、長串山の駐車場で嫁にプロポーズした。想い出の場所だ。嫁も十分承知の癖にあまり気乗りしない顔だ。ムカつく。この辺一帯は北九十九島を形成している。
「ありゃ、景色が木立で見えんぞ」
「ほんと、あの時は見晴らし良かったよね」と嫁。
「20数年で木が伸び過ぎたんや」
「木切らんと観光客に評判悪いよ」
「確かにな」
「上の方に行ったら見えるんやない?」
 嫁に言われてもう少し上がってみた。このまま上って行くと小佐々町の冷水岳に至る。
「おう!ナイス景観や」
   北九十九島が視界に見事に広がる。沈み行く太陽とのコントラストが素晴らしい。魅せられて数枚写真を撮った。
 車の中で、「夕食はどうする?」と嫁。
 今回はもう一つやりたいことがあった。親父・お袋との思い出の店、萬福の刺身定食を食すことだ。
「萬福、行ってみようか?」
「体重は大丈夫なん?」
 
 昼飯は鳥巣に寄って、お決りの「みのや」のごぼう天うどんとおにぎりを食ったが、そんなに量はない。ぎりぎり大丈夫ではないかと自分では思っている。ただ、萬福は昼飯しか食ったことがない。果たして夜は?
 電話してみたら6時に開店とのこと。一旦、ホテルに帰って体重を計ってみた。ホテルの部屋で計った体重は66.9、本当にぎりぎり67キロを切っている。ちょっと迷ったが、明日はどう考えても難しい。帰りも高速は使わず一般道を走るつもりだったから、昼くらいには猪町を発たねば。それにAZは朝食付きだ。食ったら昼飯はまず無理だ。なら今しかない。明日はほとんどが移動だから、日中何も食わなければ体重管理は何とかなるだろう。危なかったら晩飯も抜きだ。
 嫁が、「どうするん?行くん?」
「行く」と俺。
 
 開店の6時前に店に着いて、書かれた案内に一応眼を通した。梅定食は売り切れましたと書いてあったが、昼の事だから夜は復活するだろうと都合良く解釈した。別に梅定食しか使ってない食材は無かっただろうから。刺身定食の値段は梅定食1050円、竹定食1600円、松定食2100円。俺は梅定食しか食ったことはないし、刺身のお代りも一回で十分だし、無制限の必要はない。何より、俺は病気でそう食えない。
 
 俺たち夫婦が一番乗りだった。飛ばされたら困るのでボードの頭に名前を書く。その後何組かの客が来て並んだが、平日だし待ちは出なかった。一番に店内に案内されてテーブル席に。亡くなった親父・お袋と何回か来たとき、確か、美人の娘さんが居た筈なのだが、今は姿が見えない。
 メニューを聞いたらやっぱり梅定食は売り切れとのこと。ちょっと腑に落ちない。梅定食は昼でいつも売り切れと考えるしかない。必然的に竹定食しか選択肢がない。刺身の無制限お代わりなんて望む客がいるとは思えないが。
 一人1600円、二人で3200円、痛い出費だ。俺は無職だというのに贅沢ここに極まれり。
 躊躇う俺は嫁に、「どうするか?」
「いいんやない。今日は一応旅行なんやけん」
「そうかほんなら」と竹定食を注文するにはしたが、無性に後悔しそうだ。店員に無料の旬のサツマイモの天ぷらと野菜サラダを勧められた。嫁が皿に盛ってきたが、あまり食うとメインが食えなくなる恐れがある。
 運ばれて来た竹定食に、うっ、量が多い。ソバにエビフライまで付いている。それに一回は刺身をお代わりしないと1600円が勿体ない。隣の若い女とオヤジの客のテーブルにはあら煮定食が乗っている。あんな量、よく食えるなとは思ったが、ほとんどは骨か。
 
 やっぱり後悔!
 二人で3200円か。お代わりも出来るかどうか分からないのに。
 嫁に、「お前、刺身お代わり出来そうか?」
「無理!」
 くそっ、なら俺が意地でもお代わりせなならんやないか。ごはん食わんで刺身お代わりするか。
 ご飯もこんもりと装われている。こんなもの真面に食ったら間違い無く体重68キロ超えだ。考えただけで身の毛がよだつ。俺は半分残すつもりで、ちびちびとご飯を進めた。意地で刺身はお代わり。刺身だけ食ったとしても、明朝のある程度の体重増加は覚悟せねばならない。エビフライも完食してしまった。
 
 3200円は痛かった。もう夜は絶対に来ないと誓って店を出た。ご飯を残したのは店に悪い気もしたが、梅を作らなかった店側のせいでもあるし、気にする俺は人が良過ぎる。
 無料展望休憩所の駐車場に車を停めて平戸大橋の絶景に暫し見惚れる。牛が反芻する如く店で食ったものが胃から上がって来る。食う量が多かったときの現象だ。いつもは再び飲み込むが、少しでも体重を減らせないかと数度ぺっと吐き捨てた。
 この駐車場も6年前の想い出の場所だ。嫁の実家は四国の高松だが、親父が医者に匙を投げられてホスピス代わりに江迎中央病院に入院していたとき、お袋さんが家族四人でわざわざこの地の果てまで見舞いに来てくれた。昼食は萬福に招待し、この駐車場で記念写真を撮った。勿論その場には恍惚のお袋も居たが、俺の息子は学校で来れなかった。
 
 独身時代が長かったせいだろうか?自宅が古くて汚いせいだろうか?息子と二人でというのは考えられないが、俺はどんな安ホテルでも旅館でも家族と泊まるときは期待で胸がときめく。独身のときは自覚できなかったが、根っからの旅行好きなんだろう。家族もそうだから、俺には金が掛からない物書き以外の趣味は要らない。俺ら家族三人は一心同体だ。今月14日には念願の退職記念東京家族旅行が控えている。
 夫婦二人で朝食付き7560円のHOTEL AZ、長崎猪町店の宿泊プランは二段ベットだ。まぁお世辞にも広いとは言えないこの部屋、ユニットバスの狭さには足が無い俺には酷だった。俺は一段目に陣取ったが、想定通り、嫁の野郎、俺の隣に潜り込むつもりだ。益々窮屈になること請け合いだ。
 
 フロントの女性従業員は彦根のスーパーホテルほど良い女ではなかった。男性従業員の姿も二人。彦根もそうだったが、どうせアルバイトだろう。もしかして猪町育ちか?
 ホテルは全室禁煙だ。近頃、至極当然のことだと思いだした。俺は一日10本スモーカーだが、そんな俺でも仕事で車を預かったときなど喫煙車は臭いで分かる。部屋で煙草を吸われたら、ホテル側がいくら消臭しようとも、壁紙すべてを張り替えない限り嫌煙者は例えそれが一本でも分かるらしい。俺が辞めた糞会社の松下の鼻も敏感だった。必然的にその部屋は喫煙者にしか貸せないようになってしまう。予約客の部屋の選択肢が狭まってしまっては、ホテルは不利益を被ってしまう。
 
 昼間ホテルの前を通ったら、当たり前のことだが、駐車場に客の車は全く停まっておらず、経営は大丈夫なのかと要らぬ心配をしてしまう。だがこの時間、広い駐車場は車で満杯だ。こんな人口五千人ほどの町にあるホテルが。
 外がどんなに暑くとも寒かろうとも建物内で喫煙することには拘らないが、高速も含めて、外も禁煙になりだしたのには不安を煽られる。大気に拡散されたら消えて無くなるだろうに。車から煙草を取り出して、溝に沿って設置されたフェンス端で一服。吸い殻を溝に投棄。この溝も俺がガキの頃の思い出深い場所だ。
 半世紀前、深江部落のこの辺りは一面の畑だった。その畑に水を配る役割を果たしていたのがこの溝、用水路だった。溝の前はこの町でたった一本の県道。その前の土手が御堂池だ。この池の水が畑作地帯の灌漑用水だった。その灌漑用水に堤のフナが紛れて用水路を流れてくる。そのフナ目当てに、俺ら小学生は深江の隣の御堂部落からここに通った。
 畑で栽培されていたのは主にスイカだ。親父が国鉄職員とは雖も貧しかった。スイカなどそうおいそれと口に入らない高級果物だった。俺たちは軍隊張りの匍匐前進で畑に忍び込み、棒でスイカを叩き割って餓鬼の如く口に運んだ。そう初中盗んだ訳ではなく、猪町時代を通して一度か二度だから畑の持ち主には見つからなかった。たくさん生っていた内の一玉か二玉だから今更ながらではあるが許して欲しい。
 
 ホテルでの目覚めはいつも快適だ。ただ朝の日課、体重計測が億劫なことを除けば。恐る恐る体重計に乗ってみる。67・1キロ、これはラッキー、朝食食って食えないことはない。やはり、ご飯を半分残したのがよかったようだ。朝飯を食ったとしても日中何も食わなければ何とかなりそうだ。
 心配そうに見ていた、一人では朝食を食べたくない嫁が、「どう?朝食食べられそう?」
「あぁ何とか食えるんやないか」と俺の返事にほっとした顔。
 AZの朝食会場は今まで泊まったどの朝食付きホテルよりも狭かった。昨日の夜見た駐車場に停まっていた車の台数から、このスペースで本当に捌けるのかと不安視したが大丈夫だった。おかずの種類も少なかったが、一つだけ味噌汁がインスタントでなかったのが救いだ。
 
 昼には猪町を発たなければならない。先ずやりたいことは船ノ村の亡くなったお袋の実家辺りの観察だ。朝のファミマのコーヒーは外せない。県道の俺の実家に上がる道が左手に伸びる地点にあるファミマに車を入れる。この忘れられた町、猪町の唯一のコンビニだ。
 この道を上がったところの俺の実家…。勿論今は空き家だ。親父が死んで6年間もこれからも。今までは、猪町に忍んで帰ったときは実家に寄って家の中に入って様子を確かめていたのだが、未練が湧くといけないので昨日は素通りした。ただ、道路上から視界の下の実家に目を遣って、まだあることだけ確認できればよかった。例え、弟二人が俺に黙って取り壊そうが関係ない。というより、関わりたくない。
 
 今は亡きお袋の実家は船の村のバス停から小高い丘を上って行く。昔は人がやっと二人並んで歩ける程の曲がりくねった足場の悪い杣道だったが、30年ほど前に切り開かれて車道になった。その車道に並行して人一人通れる程の杣道があるが、これはずっとそのままだ。
 従姉妹に会いでもしたらバツが悪いというか会いたくもないので、この道を歩いて実家まで上ろうと考えていた。嫁は想定通り行きたくないと車に残る。この杣道の左手は畑、右手は林だ。上りきったところに、もう実をつけることはない山桃の木がある筈だったが…まだあった。この地点から視界が開け、お袋の実家と畑が見渡せ、ヤマモモの木の後方には棚田が広がる。ここで写真を数枚。
 最後に懐かしきお袋の実家を目にして10数年、思った通りだ、お袋の実家は跡形もなく取り壊されて新築されていた。並んで建つもう一軒のモダンな家に従姉妹が住んでいるのは知っているが、新築の家には誰が住んでいるのだろう。確か、以前、古い家を残しているのはまだ伯母が住んでいるからと三男が言っていた。ということは伯母は亡くなったのか?
 
 ここには俺がどうしても写真に収めたい対象があった。俺はお袋の本家関係の親類の音沙汰など全く興味はないしどうでもいい。二人の弟と共にもう二度と会うことはないだろうから。必然的に懐かしきお袋の実家が消えていても心は痛めない。
 俺の興味を惹くのは、お袋の実家のすぐ下にある集落の共同墓地に立つ兵隊さんのお墓だ。これまでもこれからもずっと、この日本の忘れられた町が一応地図に存在する限り、永遠にそこに立っていると思う。何しろ墓石だから。本家の段々畑の縁をぐるっと巡るイノシシ避けの電線が張られた小道を墓地に向かって歩いて行く。
 鉄兜を被って脛にゲートルを巻き、旧日本軍の軍服姿で38式歩兵銃を、気をつけ、で持つこの兵隊さん、俺が物心付いたときからそこに直立していた。雪の日も台風の日も灼熱の日も。俺も相当の数の墓石を眼にしてきたが、墓石に兵隊さんの石像が乗っているのはこの墓だけだ。墓石の墓誌には日華事変で戦没と彫ってある。戦後生まれの俺は懸命に妄想を搔き立て、日中戦争を頭の中で再現してみたものだ。広大な大陸の戦場、滔々と流れる大河、地平線まで続く凍て付く平原、深いクリーク、いったい亡くなった兵隊さんはどこで戦って若い命を散らしたのだろうか、とか。
 
 俺は後ろからと前からと、二枚兵隊さんの写真を撮って車を停めた車道まで下りた。
 夜露に濡れた杣道を杖をついて下りながら、『ここで生活しとる奴ら、ようこんな辺鄙なところに住めるよね。尊敬するわ。離島なら仕方ないが、小倉でも福岡でも地続きなんによ。コンビニも一軒しか無いしスーパーも無い。カラオケボックスも無いしビデオ屋も無い。食堂も無い。あるのは山と海と小さな島と小川と小さな商店』
 
 嫁が言っていたことが身につまされる。
 ――私、定年して猪町に住むって言われても絶対無理。カラオケボックスも無い町なんて。
 俺も今なら嫁に賛成だ。
 ――親父の居ないこんな町、住める訳ねぇわ。
 
 ここが宮田ヶ原だろう↓

 

 宮田ヶ原池↓

 

 長串山公園↓

 

 北九十九島の絶景↓

 

 萬福の刺身竹定食↓

 

 兵隊さん↓

 2017年11月8月分16時53分作成

 2019年6月1・2020年11月4日・2021年11月10日修正