1996年7月某日、結婚してから習慣になっていた月に一度の里帰り、いつものように二連休を消化し帰途に就こうとしていた矢先、電話が鳴ってお袋が出た。
「今、ちょうど居りますけん、代わりましょうか」
  ――なん、ちょうど居るちゃ俺のことか?
「TYMちゃん、ババ君から電話よ」
「もしもし、おうババか。久し振りやのう、二十年ぶりか」
「今度同窓会するけん住所と電話番号教えてくれ。5年前にもやったとばってん連絡不行き届きでほとんど集まらんやったばい。今度はしっかりやるけん」
「何か、前にもやったんか。俺、帰って来ても同級の奴は猪町には全然残っとらんち思とったけん同窓会ちゃ夢にも思わんやったで」
 猪町役場に勤めるババと数十分近況を伝え合った。トモヒロのことも、フクヤマ・カオリのことも、ケイゾウのことも、その他、他県に出て行った奴らのこともいろいろ知った途端、もう薄れてしまっていた記憶、猪町小学校の懐かしい思い出が次々と蘇ってきた。奴らと会うことはもう二度とないだろうと思っていたが…そうか、同窓会か!

 

 小倉に戻って押入れを弄り、一冊のノートを取り出した。大学時代、文筆業に憧れて拙い文章で書き綴ったノートだ。作品と言える代物ではないが。

 幼い一人息子が邪魔するので、読み終えるのに数日掛かってしまった。読み返しながら、こんなことまで覚えていたのかと、自分で書いたものなのに結構感心してしまう。福岡の嫁さんの実家から貰ったソファーに身体を横たえて読み耽っていたら、嫁が興味津々で私にも読ませてとしつこく迫って来る。
  
  ――我が魂の故郷・猪町――
 そうや、せっかく記憶が確かなうちに書き溜めたノートやから、ひとつ、きちんと推敲修正して書き上げてみるか。しかし、やり始めた途端、横から悪魔がやってきた。息子の康太だ!

 こりゃ〜、仕上げるまで何年掛かるか?

 

 温故知新、結構よく使う四字熟語で、漢字の試験などに好んで出題される。
 俺がこの少年時代を書くに当たっては、「故きを温ねて新しきを知る」より、「故きを温めて新しきを知る」の方がしっくりくる。
 あの頃より、もう半世紀もの時間が流れてしまった。戦後の進歩の速度は戦前より断然早いような気がする。情報網の発達によって地球が狭くなったせいか。それとも日本が戦争に敗れてアメリカナイズされてしまったせいか。生活に便利なものがリアルタイムに日本の隅々まで行き渡ると、国家的な伝統文化・遺産などのを除いて、古き良きものは有形無形共々、俺の周囲から姿を消してしまった。せめて文章でだけでも古き良き時代を残しておきたい。

 

 お断り
 この物語はフィクションです。登場する個人・団体名はすべて架空のものです。どうぞご了承下さい。書いたのはほとんどが私が二十歳のときです。推敲修正してブログにアップしている私はもう還暦、年度は2019年です。

 取り留めもなく想いつくままかいたので、記事はバラバラてす。気になさらずお読みいただければ幸いです。

 

 俺が生まれた町は、人口8千人程の長崎県北松浦郡猪町町という小さな町だ。九州の最西端に当たる。この町の特産物は真珠とみかんだと小学校の郷土の勉強で教えられた。町を貫いて一本の県道が走り、囲むように山塊が両脇に連なる。町の西側は海に望み、無数の小さな無人島が点在して北九十九島国立公園を形成する。主要地域は両端にある。猪町(ししまち)地区と歌ヶ浦地区だ。

 

 四季の変化・風物はバラエティーに富む。
 春、野焼きが終わった草原に蕨が一斉に顔を出して、朝食の味噌汁の味を引き立ててくれ、大粒小粒のグミにありがたく舌鼓。県道沿いの土手にはつくしがかわいい頭を擡げ、田んぼには絨毯を敷き詰めたように蓮華草が咲き乱れる。畑地には高く舞上がった雲雀の鳴き声、開花に合わせて桜に群がるメジロにヒヨドリ。

 

 初夏には野イチゴ・木苺、梅雨時にはたわわに実った枇杷に舌鼓。盛夏、アブラゼミ・クマゼミの甲高い鳴き声が世間を騒がし、林のクヌギの木にはカブトムシにクワガタ、海・川には子供たちのはしゃぐ姿。晩夏、つくつくぼうしのもの悲しい鳴き声が楽しかった夏の終わりを告げる。
 

 秋、山々は冬に備えて紅葉の模様替え。待ってましたとばかり、柿・クリ・まて・椎の実・山桃・うべ・山葡萄・いたび・無花果にありがたく舌鼓。
 

 冬、どんよりとした空には編隊飛行の渡り鳥。家々の軒下には干し柿の簾。正月、広場では子供たちの凧揚げ、佐世保喧嘩ゴマの競演。

 

 今でこそ人口8千人の小さな町だが、かって日鉄炭鉱が栄えていた頃は、人が犇めき合い、町には活気が漲っていたと聞いた。町内には炭鉱時代の住宅が残っているが、その多くは老朽化している。シロアリが頻繁に発生して家族総出で駆除に奔走した。また、ぼた山も数か所に存在し盛況時の名残を今日に伝えている。

 

 当時、六校あった小・中学校も四校に減少してしまった。猪町校区の部落は深江・御堂・北猪町・口の里・南猪町の五つで、俺は小学校入学前は北猪町の植松に住んでいたのだが、小学校就学前の俺と次男が県道に出て遊ぶので危ないと、御堂に移った。
 小学校の運動会の部落対抗リレーではいつも北猪町が優勢で、俺は御堂に移ったことを後悔したものだ。町が小さいので保育所、小学校、中学校と周りの顔に変化がない。そのまま進級していく。だから、大きな街に較べて俺たちの仲間意識は強かった。

 

 俺は御堂に移ってから深江保育所に通った。そこで共同生活というものを初めて肌で感じた。周りの顔が一緒だと保育所、小学校、中学校と一度決まった力関係からは容易に抜け出せない。子供社会では、上手くやっていく上で、誰かが上に立ち、段々とそいつに続く者が形成されていく。残念ながら、俺は中の上くらいの立ち位置を甘受していた。うまいことに、スポーツでも遊びでもその均衡が崩れることはない。

 

 保育所に入って何日か目に、俺よりちょっと背の低いトモヒロと知り合った。渾名はタカボ、活発な性格で気も強く、駆けっこにかけては猪町小学校で一・二を争い、俺は事故に遭って走れなくなるまで一度も勝てなかった。トモヒロの家は猪町川の河口の、背後に小山を頂く海辺の一角に、一軒だけ離れてぽつんと建っている。
 トモヒロの父親は再婚で、実父は鉄鋼関係の会社に勤めていたが、鉄板の下敷きになって亡くなったとのことだ。この再婚の父親は凶暴な性格で、よく短気を起こして彼や彼の姉を殴打していた。トモヒロは中学になっても父親の暴力を気にする素振りも見せず、淡々と従っていた。俺は彼に、ときにはちょっとぐらい逆らえよとよく忠告したものだ。トモヒロの家は鶏を飼っていた。親父に言われて、餌のギシギシを採集しに原っぱを流離う。俺もよく付き合ってやった。

 

 御堂部落の一学年上に、猪町小学校で人気と実力を博するカワゾエ・ヨシダ・ムラカミの三人のガキ大将がいた。上記の、『子供社会では、上手くやっていく上で、誰かが上に立ち、段々とそいつに続く者が形成されていく』とは、彼ら三人のことだ。

 俺は小学二年の一時期まで、曲がりなりにも奴らと対等に遊んでいた。それが、俺が県道を自転車で走行中、バイクと接触事故を起こしてからというもの、一年の歳の差を超えられなくなってしまい、奴らを上級生と意識せざるを得なくなった。学校が俺の事故を契機に、県道での自転車走行を禁止してしまったからだ。俺は奴らに恨みを買ってしまった。

 今(2024年6月)思うと、そういえば、カワゾエの家は、猪町工業高校に通う兄貴とお袋さんと入れ墨者も親父さんの四人家族で、家業は魚屋で、稼いでいたのはお袋さんだけだったような。だが、ヨシダとムラカミの家のこと、俺は全く知らなかった。親父の職業も家族構成も。何とも不思議だ。俺が中学一年終了時に転校するまで、この二人、ちゃんと御堂部落に居たのに。

 

 小学校時代、校則には絶対服従で、破ることなど考えも及ばなかった。猪町小学校では夏休みにならなければ、海・川で泳ぐことは絶対に許されい。遊泳に、たとえ父兄が付き添ったとしても。

 7月19日の終業式の前日、部落ごとの会合が持たれ、色々な規則が周知徹底された。
 小学校時代の俺の最大の不満。それは、五部落の内、御堂部落にだけ古いプールがあって、そこでしか遊泳が許されなかったことだ。北猪町部落は猪町川の河口の海、口の里も海、南猪町は川で悠々と泳いでいたのに。俺は羨ましくて堪らず、よく猪町川の土手から広い海で楽しそうに水飛沫をあげる北猪町の連中を眺めた。


 今、この部分を書いているのは、2024年6月14日だが、夏休みの遊泳に関して、どうしても付け加えておきたかった。腹が立って仕方ないから。

 このアメブロには何度も書いているが、俺は小学校五年生のとき、大事故で左足を切断した。さすはに片足では遊泳する気になれず、というか、大学で障害者の殻を破るまで、俺は、他人には絶対に切った左足を見せなかった。だから、俺の遊泳人生は小学校五年生の夏で終わりを告げた。

 ほんと、もったいなかったとしか言いようがない。生まれつきではなく小学校五年生までは、曲がりなりにも、健常者だったのに。毎日海で泳げる場所が二ヶ所もあったのに。俺は、老朽化して、腐った水を貯めたプールでしか泳いだこと、なかった。

 口ノ里部落の許可された遊泳場は、めっちゃ綺麗な海だった。同級生の赤木の家の前に広がる江迎湾だ。俺は夏休み、何度かこの海の岸辺に立ったと思う。でも、海の中に入る勇気はなかった。軍国教育の残滓だ。校則は絶対だという洗脳、昭和40年代の小学生に解くのは不可能だ。


 近年、水の事故で多くの子供が命を落としているが、不思議と、この町内、水の事故で死んだ子供はいなかった。あの時代、監視員なんで置いてない。子供の自己責任だった。もし、溺れて死んでも、ご愁傷さまで終わる時代だった。

 海水浴場に監視員を配置してないなんて、今なら絶対に考えられないことだし、もし事故に遭って死んだら、遺族、誰かに責任転嫁して訴えて賠償金ふんだくるだろう。何とも世知辛い時代になったものだ。


 小学二年の夏休み前、俺はトモヒロ、ケイゾウ、キジマの四人で池に泳ぎに行った。深江と御堂の間には湿地帯があり、大小の自然形成の池が点在していた。俺たちが選んだのは廃線沿いの直径5メートル程の円形の池だ。

 俺を除いた三人は躊躇なく池に入って行ったのだが、俺だけどうしても入ることが出来ない。ここまで来て、校則に呪縛された俺はみんなを眺めることしかできなかった。

 

 両親の教育の賜物か、小学校低学年時、俺は一線を越えられない気弱さを克服できずにいた。その後、誰かの告げ口で事が発覚し、俺を除いた三人だけがこっぴどく先生に叱られ、俺は三人に恨まれた。 

 ガキの反目はすぐに解ける。俺は気にしなかったし、つくづく三人に同調しなくてよかったとほっとしていた。そこにはほんの小さな悪さもできない気の小さい俺が居た。

 

 2019年3月3日・6月10日・2020年4月24日・6月9日・2024年6月26日修正