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豊臣秀頼(1593~1615)は秀吉が57歳のとき
の子供で、淀殿を母として大阪城内で誕生した。

それまで秀吉には、大勢の側室がいたにもかかわらず子
がいなかったことから、「秀頼は秀吉の子ではない」と
いう噂もささやかれた。

その原因の一つが、秀頼の体格である。

伝わるところによると、秀頼の体格は身長が6尺5寸
(約197センチ)、体重が43貫(161キロ)とさ
れ、かなりの巨漢であったことがわかる。

戦国時代当時の日本人は、身長は5尺(152センチ)
もあれば上等で、この時代に2メートル近い身長があっ
たなら、さぞかし目立ったことだろう。

秀頼が生涯で城の外に出たのは2回のみで、一回目は伏
見城から大阪城へ移るときで、二回目は徳川家康に接見
するため二条城に赴いたときである。

家康との接見は1611年3月28日のこと。このとき
秀頼は19歳になっており、立派な青年大名としての風
格を備えていた。

一説によると、このとき家康は秀頼を見たことによって
豊臣氏を打倒しなければならないと決意したともいわれ
るが、家康がそのように思った原因には、秀頼の偉丈夫
な体格があったのではないか。

つまり、堂々たる体格を持つ秀頼が、この先どのような
手を打って出てくるのか、家康は秀頼に会ったとき、逡
巡したであろうことは想像に難くない。

秀頼の体格と、そのお膝元である大阪の活気みなぎる勢
いが、家康を追い詰めていたともいえるのである。

ちなみに、「秀頼は秀吉の子ではない」という説につい
ては、当時から俗説の類いがあった。父親としては大野
治長説や石田三成説がある。

大野治長などは淀殿の寵愛を受けていたともされるが、
巷の噂話を鵜呑みにして書かれた可能性もあり、一概に
信じることはできない。