早いものだ。
私がプロレスを引退してから、今年で15年になる。
肉体を酷使する日々から離れた現在の私は、極めて穏やかな暮ら
しをおくっている。
私がプロレスを引退してから、今年で15年になる。
肉体を酷使する日々から離れた現在の私は、極めて穏やかな暮ら
しをおくっている。
そんな毎日の中で、年に2、3回、夜も深まった頃、いまの自分
の幸せを感謝し、つい電話をかけてしまう相手がいる。その男に
私は決まってこう語りかけるのだ。
「あなたに感謝するよ。私にブロレスというものを紹介してくれ
て、本当にありがとう。あなたがいなければ、プロレスと巡り会
うことはなかっただろう。
プロレスというビジネスを教えてもらえなかったら、日本に行く
こともなかったし、だとすれば妻と出会うこともかなわなかった
はずだ。
今日、「私は幸せだ」といえる状態にあることは、すべてあなた
のおかげなのだ」
だが、電話の向こうの彼は何も言葉を返さない。彼は黙ったまま
だ。だが彼自身も、私と同じように、幸せな気持ちになっている
ことを私は知っている。
彼は、私だけではない、さまざまな人たちに向けて出を差し伸べ
多くのチャンスを与えてきた。
だが、チャンスを与えてもらったその者たちは、いくら自分が成
功しても、彼に対して「ありがとう」という言葉を返すことはほ
とんどない。だから、感謝の言葉を伝えられることは、何よりの
宝物なのだろう。
彼──テリー・ファンクにとっては。
私が新日本プロレスから全日本プロレスに移籍した1981年当
時、テリーと実兄のドリー・ファンク・ジュニアによるタッグ「
ザ・ファンクス」は、すでに確固たるポジションを築き、トップ
中のトップとして君臨していた。
一方、私、スタン・ハンセン、そして、共にスターダムにのしあ
がることになるブルーザー・ブロディ、下から追い上げる新しい
世代だった。
当然、ファンクスは新しい世代を抑え、トップのポジションを頑
なに守ろうとした。だが私たちも、それを許しはしない。容赦の
ない攻撃で徹底的に彼らを痛めつけた。
レスラーとして絶頂期にあった私は、テリーに対して、
「テキサスの化石になれ!」
などと叫び、ブルロープを彼の首に巻き付けて、イヌのようにリ
ングを引きずり回したこともあった。
ングを引きずり回したこともあった。
ああ、あったねぇ。
なんて、恩知らずな野郎だ、と子供の頃のオレは思ったものだっ
た。
ファンクス道場で、一緒に修行した、ジャンボ鶴田、ボブ・バッ
クランドは、「道場の修行で強くなった」ことを前面に押し出し
て活躍していた。、
一方のハンセンは、「ブレーキの壊れたダンプカー」といキャッ
チフレーズと共に、ファンクスに妥協の知らぬファイトを差し向
けていた。
なんて、恩知らずなのかと…。
ラフファイトに対して、後の取材で、
「あの時は、やりすぎだとか感じなかったですか?」
と聞かれたものだが、当然ながら、そんなものは微塵も感じてい
ない。それは当時も今も同じだ。
テリーも私も、プロレスラーとして受けなければいけないものを
全て受けとめただけのこと。それがリング上でのルールだ。
「あいつが嫌い」とか「憎んでいる」ではなく、ラフな試合展開
は互いに対する競争心によるもの。自分が一番の人気を取るため
に、また、自身の地位を築くために必要な真剣な競争だった。
私がすごしてきたプロレスとの熱狂的な日々と、老境に差し掛か
った今を重ねて見えてきた人生というもの──。
古いバーで隣り合わせたオールドマンの昔話に、共にグラスを傾
けながらつき合うような気分で読んで欲しい。
そこに、ひとつでもあなたにとって糧になるようなことを感じと
っていただければ、それだけで私は満足だ。
スタン・ハンセン