▶「佐々井秀麗、インドに笑う」レビュー4・ガンジーが嫌われたのはなぜ? | ぐーすけとりきのブログ

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インドに来てすでに3年の月日が経っていた。仏教を広めたいと
いう想いのまま、ただやみくもにデンデコ太鼓を叩いてまわった
り断食・断水を決行するだけでは、インド民衆の心の奥深くを理
解することができない。知識と実践、その両輪が必要だ。

一度立ち止まって、この国の宗教や歴史、政治や文化も学び、不
可触民が信奉しているアンベードカルの生涯も学びたい。

佐々井さんは改めて、アンベードカルよりも22年ほど早い18
69年に生まれたガンジーの人生を振り返ってみた。裕福なポー
ルバンダル藩王国の宰相の子として生まれたガンジーは、ロンド
ンに留学して弁護士の資格を取る。

卒業後はインド本国同様、イギリス領だった南アフリカで弁護士
事務所を開業するも強烈な人種差別を経験し、インド系移民の差
別に対し断固、戦い、権利回復に尽力した。

帰国してからはイギリスから独立を果たすべく、不服従で民衆と
ともに立ち向かった。その行動は世界中のメディアが取り上げ、
第二次世界大戦後、独立を果たすと「インド独立の父」として知
られるようになる。ここまでは、日本の教科書にも載っているガ
ンジーの偉業である。

一方、アンベードカルの人生はどうだったのか?

ガンジーがロンドンで法学を学んでいた1891年にインドのマ
ッディヤ・プラデーシュ州のマウーで14人兄弟の末っ子として
誕生。貧しい不可触民の家庭では珍しく教育熱心な父のおかげで
突出して優秀だったために学校に通うことを許された。

しかし、身分が低いために同級生と同じ水瓶の水を飲むことさえ
許されなかった。気の毒に思った上位カーストの同級生がひしゃ
くに水を汲み、口に直接当たらないよう、上から流し込んでくれ
たこともあったという。

勉強好きなアンベードカルは高校でもめきめきと頭角を現し、不
可触民では初めてボンベイ大学に入学。卒業後はNYのコロンビ
ア大学に留学し、博士号を取得後はボンベイで弁護士として活動
を始めた。

虐げられている同胞を助け、差別と闘うべく、当時のボンベイ州
議員に立候補し政治家として活動を始めた。ところが、そこに立
ち塞がったのがカーストを擁護するガンジーだったのである。

南アフリカでのイギリスからの差別やインドの支配には断固とし
て闘ったガンジーであったが、国内のカースト制度はなぜか黙
認した。

カーストによる差別や暴力はいけないというスタンスは持ちつつ
も、不可触民を“神の子”をして名前を付け保護することで、む
しろ制度そのものを残そうとしたのだ。

不可触民の悲惨な生活を同じインドに生まれたガンジーが知らな
いわけがない。当時、不可触民をタダ働き同然で扱うことで、イ
ンド経済が支えられていたのは事実だ。もし、不可触民が団結し
基本的人権を要求したら、反対派との対立から暴動が起こり、イ
ンド経済が立ち行かなくなると恐れたのかもしれない。

「佐々井さん、私はてっきり、ガンジーはカースト制度もなくそ
うと奮闘していたのだと思っていました。外国からの差別には断
固、抵抗したのに、国内の身分制度は守ろうとしたなんて……。

あの質素な白い服装と糸車を回している素朴な写真が歴史の教科
書に載っていたから、お金持ちのイメージが全然、湧かないので
すが、マスコミ用の写真だったのかしら?清貧なガンジーのイメ
ージがガラガラと崩れてます」

「そう、俺も、最初はお前と同じように知らなかった。なぜ、外
国人にガンジーが人気で、アンベードカルを知らないのか、その
理由も分かったんだ。

当時、アンベードカルの書いた本は死後も特定の本屋のみでしか
販売できず、公の場でガンジーを批判することは法律で禁じられ
ていた。アンベードカルの影響を恐れた上位カーストたちがそう
決めたようだ」

だからガンジーは不可触民の人々に嫌われていたのか。佐々井さ
んは、自分の無学を恥ずかしく思った。

アンベードカルは法務大臣に就任し、ガンジーが1948年、7
8歳でヒンドゥーの過激派に暗殺された後、不可触民制度の廃止
を盛り込んだ憲法をほぼひとりで作り上げた。

1949年に国会で採択されたものの、なかなか差別はなくなら
なかった。相変わらず上位カーストは不可触民の人々を虐待し、
搾取し続けていた。

そして最後の手段として、アンベードカルが考えたのが「仏教へ
の改宗」であった。

かねてから様々な宗教を研究していたアンベードカルは、自分の
国で生まれた仏教の平和や平等の教えに感銘を受け、いつか改宗
したいと考えていた。

ヒンドゥー教とカーストは一体化している。ならば差別のない仏
教に望みを託し、武器は持たずとも差別には抵抗し、仏教の教え
を広めていこう。

アンベードカルは、1956年、50万人の不可触民とともに、
ビルマから高僧を呼んでナグプールで大改宗式を行った。

実はアンベードカルが作った今の憲法には、仏教の平等や平和の
思想がふんだんに盛り込まれている。

驚いたことにアンベードカルらが考案した現在も使われている国
旗には、仏教の法輪(ダルマ)を意味するアショーカ・チャクラ
の図がはいっている。

憲法をつくり、国旗を変更し、インドに仏教の思想を根付かせよ
うとしたアンベードカル。

ところが、皆で大改宗式を行った2か月後、さあ、これからとい
う時に65歳で亡くなってしまう。

佐々井さんがナグプールにひよっこりやってきたのは、それから
12年後だ。

「アンベードカルの死後、インド仏教会には指導者らしい指導者
がいなかった。生まれたての赤ちゃんを置いて、親が死んでしま
ったようなものだ。仏教徒になった不可触民は、何をどうしてい
いのか分からない。

改宗しただけでは生活は良くならないし、むしろ改宗したことで
ますます上位カーストにはいじめられる。

ナグプール市内には僧侶が一人もいないし、寺もない。

なるほど、俺をここに呼んだのは天命だったのかもしれない」

アンベードカルは自分の死後、インドで困っている仏教徒たちを
見るに見かねて佐々井さんが来るように仏に頼んだのではないか。

佐々井さんは、アンベードカルを知れば知るほど、その思想に惚
れ込んでいった。