1969年、千葉県生まれ。日本大学レスリング部副主将を務め
卒業後の91年、プロフェッショナルレスリング藤原組に入団。
93年9月21日のパンクラス旗揚げ戦でジョージ・ワイングロ
フにKO勝ち。97年、UFCに参戦し、ヴァリッジ・イズマイ
ウと対戦。日本人のUFC初勝利となった。2001年にはパン
クラスの初代ヘビー級王者に。04年からはPRIDE、HER
O’S、戦極に参戦し、ヒース・ヒーリング、ビクトー・ベウフ
ォート、メルヴィン・マヌーフ、ヴァレンタイン・オーフレイム
といった強豪と激闘を繰り広げた。
卒業後の91年、プロフェッショナルレスリング藤原組に入団。
93年9月21日のパンクラス旗揚げ戦でジョージ・ワイングロ
フにKO勝ち。97年、UFCに参戦し、ヴァリッジ・イズマイ
ウと対戦。日本人のUFC初勝利となった。2001年にはパン
クラスの初代ヘビー級王者に。04年からはPRIDE、HER
O’S、戦極に参戦し、ヒース・ヒーリング、ビクトー・ベウフ
ォート、メルヴィン・マヌーフ、ヴァレンタイン・オーフレイム
といった強豪と激闘を繰り広げた。
高橋はもともと鈴木みのると同学年で、高校時代からのライバル
同士だった。レスリングの関東大会では、千葉代表の高橋と、神
奈川代表の鈴木が常に優勝候補。お互いプロレスラー志望であり
大会で会った時には、隠れてタバコを吸いながら、将来の夢を語
り合ったという。
そして、高校卒業後、鈴木は新日本に入門し、高橋は日本大学に
進学。それぞれ別の道を行くこととなるが、その後も交流は続い
ていた。
「だから、みのるの試合を観に新生UWFの会場にも行ってまし
たよ。あの頃のUWFって一大ムーブメントだったじゃないです
か。だから、自分もUWFに行きたいっていう思いがすごく強く
なって。卒業後はUWFに入ろうと思ってたんですけど、僕が卒
業する前にUWFが解散しちゃったんですよ」
91年1月7日に前田邸で行われた選手会議が紛糾。前田がその
場で「解散」を宣言、UWFはあっけなく終焉を迎えてしまった。
この時、大学4年で卒業間近だった高橋は“第一志望”だったU
WFが消滅したため、かねてから声をかけてもらっていた、日大
の大先輩である谷津嘉章の誘いを受け入れ、SWS入りを決める。
しかし、鈴木の“一言”によってそれを翻意するのだ。
「UWFが解散したっていう記事を見た後、みのるに電話しても
あいつ出なかったんですよ。それで『UWFがなくなったのなら
仕方ない、谷津先輩のところに行こう』って決めて、、みのるに
留守電を入れたんです。そしたら、それまで全然電話に出なか
ったみのるが、すぐかけ直してきて、『もうすぐ藤原組という
団体ができるから、そっちへ来ないか?』って言うんですよ。で
も、もう谷津先輩に返事しちゃったあとだったんで、『いや、俺
はSWSに行くことにするよ』って言ったら、『そっち行ったら
お前は俺に一生勝てなくなるぞ』って言われて。『なんでだよ』
って言い返しても、『いや、入りゃわかるよ』とだけ言われて。
頭に来たんで、なんか売り言葉に買い言葉みたいな感じで、『わ
かったよ、藤原組に行くよ。ただし、お前に勝ったら、先輩呼ば
わりしねえからな!』って言って。あと船木とは同い年どころか
誕生日まで一緒だったから『船木にも勝ったらあいつにも敬語
使わねえぞ』って言って藤原組に入ったんです。
だけど、入門した初日に船木と鈴木にスパーリングでボロボロに
されましたね。あの頃はいまみたいにラウンド制でスパーリング
やってないんで、1時間ぶっ通しとかで、船木とみのるに交互に
ボロボロにされましたよ。でも目一杯やれて楽しかった。で、初
日の練習終わった後、みのるとクルマで別の場所に行って。そこ
で二人でタバコ吸いながら、『いやー、キツかったな。でも俺、
やられちゃったから、今日からちゃんと敬語使います』みたいな
ことを言ったんです。だから、その日から『船木さん』『鈴木さ
ん』って『さん』付けで呼ぶようにして、あいつらの練習着も全
部洗濯しましたね。」
高橋義生が、その本領を発揮し出したのは、やはり93年9月に
旗揚げしたパンクラスからだろう。パンクラスは船木と鈴木が二
枚看板だったが、高橋はその二人と実力的に遜色ないにもかかわ
らず、あえて“番人”的なポジションに座り、他流試合要員とし
て睨みを利かせていた。
そしてUFC12で高橋は、カーウソン・グレイシー柔術四天王
の一人だったヴァリッジ・イズマイウと対戦することが決定。
しかし当時は、UFCで勝利した日本人も、黒帯のブラジリアン
柔術家に勝利した日本人もいなかった時代。下馬評では高橋が圧
倒的に不利と目されていた。
「100人が100人、絶対に僕が負けるって思ってたんじゃな
いですか?UFCでは市原海樹が負けて、北尾(光司)も負けて、
空手と大相撲という日本の国技が二つとも負けて、“日本最弱”
って言われてたじゃないですか。そこに僕が出て行っても、『パ
ンクラスで船木、鈴木の下にいるヤツでしょ?』みたいな感じだ
ったと思うんですよ。
だから『負ける』って思われても当然だし、別に悔しくもなかっ
たし。おかげで日本を背負ってるプレッシャーもなかったので、
パンクラスの3番手くらいに見られてて、ラッキーぐらいの感じ
でした。
ただ、試合前に遺書は書きました。負けたらパンクラスの名前に
泥を塗ることになるし、日本にも泥を塗ることになるから。あと
に続く人が出てこなくなる可能性もある。だから、ホントに覚悟
はしましたね」
こうして高橋はオクタゴンで15分間闘い抜き、イズマイウに見
事判定勝ち。「UFC日本人初勝利」と「大物グレイシー柔術家
を初めて破った日本人」という二つの大きな勲章を手に入れた。
しかし高橋は、この金看板を掲げ打倒グレイシー一族や、さらな
るビッグファイトを求めることなど、自分の名声をさらに高めよ
うとはしなかった。
「UFCに出たのは、自分の名前を売りたいためでも、大金をも
らうためでもなく、自分の根性を試すために出たんで。あとは、
これによってパンクラスが舐められなくなれば、それでいいと思
ってましたから。
だからPRIDEが出来た時も、黒澤浩樹先生が(運営団体KRS
の)代表幹事だったことから、『高橋くん、出てみない?』みた
いな話はありましたけど、興味を示さなかったんです。それより
パンクラスが舐められないことが大事で、『パンクラスに何かあ
れば、俺が出ていくよ』って感じでしたね。
パンクラスの顔は船木なんで、誰か他団体のヤツが『船木とやり
たい』とか言ってきたら、『その前に俺がやってやる。やりたい
ならおれに勝ってからにしろよ。俺に勝ったら船木の名前を出し
てもいいよ』って、裏でも表でも言ってましたからね」
そんな高橋の確固たる姿勢は、97年にパンクラスと前田日明の
揉め事が起こった際にも表れていた。
「パンクラス関係者がリングスは八百長だと言っている」という
噂を耳にした前田が、記者の囲み会見で「パンクラスがちょっと
ウチに対して許せないことを言っている。パンクラスは邪魔なの
で潰したい」と発言。これを受けてパンクラス側は、高橋が『ウ
チを潰すとか言ってる前田日明を殺す!」と過激に応戦したの
だ。
「前田さんとパンクラスが揉めた時も、なんで揉めたかの原因と
かはあんまり気にしてなかったです。いまだになんで揉めたのか
ハッキリとはわかってないし、前田さんからしたら俺は関係なか
ったのかもしれない(笑)。でも『パンクラスを潰す』って言わ
れたら、やらないわけにはいかないでしょう。(この時、前田は
「高橋くんの売名行為に付き合うつもりはない、それより、鈴木
隠れてないで出てこい」って言って鈴木を標的にしている)。
なんか船木もみのるも、前田さんがいろいろ言ってくることに対
して面倒くさそうにしてたんで、『いいっすよ、俺がやりますか
ら。その代わり、俺が手を挙げたからには誰も口出ししないで。
俺が最後までやるから』とは言いましたね」
この騒動は結局うやむやのまま終わったが、数年後、高橋と前田
は知人のパーティーで同席した際に和解。(高橋が前田にキス)
そして、あれから実に21年の時を経て、2018年7月に高橋
は前田がプロデュースする「THE OUTSIDER」に出場
することで、過去を清算した。
「もうパンクラス旗揚げメンバーは方々に散って、前田さんとパ
ンクラスの因縁も過去のものになりましたけど。僕の中のケジメ
として、公の場で前田日明との問題を終わらせなきゃいけないと
思って、アウトサイダーに出場する時、前田さんと横並びで会見
に出席したんですよ。
でも、僕と前田日明の関係を知ってる記者なんて、もう誰もいな
かったですね。『俺と前田日明が並んで座ってること自体おかし
いと思わねえの?』って思ったんですけど。『ああそっか、も
う今の記者たちは、そういう歴史も知らないんだな』って」