●輪島大士さんが亡くなった。 | ぐーすけとりきのブログ

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オレは、相撲時代の輪島氏は知らないので、輪湖時代といわれて
もピンとこない。

三役昇進前から私生活は派手であり、場所入りの際にはリンカー
ン・コンチネンタルを乗り回していた。また髷を結う前の髪を伸
ばしている時期にパーマを当てたり、トレーニングにランニング
を取り入れたりして物議をかもした。

引退後は花籠部屋を継承。

1985年11月に角界では前代未聞の、年寄名跡「花籠」を実妹の経
営する料亭の借金の担保にしていたことが表面化し、日本相撲協
会は臨時の理事会を開き、委員から平年寄への2段階降格処分と無
期限謹慎処分を決議した。

大相撲を離れた輪島は、1986年に全日本プロレスに入門。輪島が
入門したことで、日本相撲協会は全日本に対して1986年11月以降
における両国国技館の使用禁止を通告し、全日本は2004年まで18
年間両国国技館における興行ができない状態に陥った。

両国の使用権を使えないようにされても、馬場は輪島を起用した。
これは、当時としては、一般の輪島ファンからしたら、同意を得
ることができる対策だったといえよう。

輪島がプロレス入りすることによって、今まで、プロレスを扱わ
なかった、スポーツ紙がプロレスを取り上げるようになったのだ。

しかし、格闘家としては峠を過ぎていたため、プロレスファンと
しては素直に応援できないものであった。

「黄金の左」といわれた、左下手投げを改良した、「ゴールデン
アーム・ボンバー」という必殺技を編み出し、NWA世界戦にも
大抜擢。(ゴールデン・アーム・ボンバーは相手ののど元に黄金
の左をあてがい、3回揺さぶってマットにたたきつけるという荒
唐無稽な技だった)

練習が嫌で、プロレス界を辞めたといわれるが。同時期の元横綱
双羽黒(北尾光司)に比べても、子供のような歳の若手と一緒に
体を動かしており、また、天龍源一郎との激しい試合は、前田日
明をして「こんな激しいプロレスをやられては、俺たちの出る場
所がない」といわれるほど高く評されたものだった。

ぐーすけは、「日米レスリング・サミット」という新日が初めて
東京ドームを使用した大会に出る前だったか、輪島と赤坂のバー
で見たことがある。向こうもオレのことなんか知らないし、オレ
も声をかけられるほどのもんじゃない。やたら、バーのママが
「すてき~抱かれたい~」と何度も何度も言ってたのを思い出す。

70歳での死去。

A・猪木がとっくに70を過ぎていることを鑑みれば、若すぎる
とは言えまいが。プロレスを普段見ない層の人々を、ファンにと
りこんだ、功績はあまりあると思う。

                        合掌