興行単体で考えるのであれば、PRIDE・1は赤字だった。ただ、
その赤字は関係者が覚悟していたほどではなく、また、大会の模様
を収録したVHSの売り上げや、ペイ・パー・ビューの売り上げが
すこぶる良かったことで、パーフェクTV側からは第二、第三の興行
を望む声があがっていた。
やがて、揺らぎ始めた榊原の決意にとって、最後の一撃ともいうべき
出来事が起こる。
「前田さんがヒクソンとやる。そんな話が聞こえてきたんですよ」
確証があったわけではない。それでも、十分にありうる話だと榊原は
思った。
いまは袂を分かった形になっているが、前田日明は高田にとっての
兄貴分とも言うべき存在である。実際、10月11日の東京ドームに
前田本人が姿を現し、両者の戦いを見守っていた。観客がその存在に
気づいた時、場内は異様なまでに盛り上がった。
前田が打倒ヒクソンに名乗りをあげれば、高田の惨敗にショックを受
けたメディア、ファンは一斉に飛びつくことが予想される。前田によ
る、弟分の仇討ち。起こりうる熱量の大きさが、榊原には容易に想像
がついた。
そして、より大きな舞台を求めて高田戦にゴーサインを出したヒクソ
ンであれば、前田からの誘いを断る理由は、おそらく、ない。
「高田さんが踏み台にされる!まず思ったのはそういうことでした。
プロレス界がグレイシー柔術やUFCに見て見ぬふりを決め込んで
いる中、高田さんだけは声をあげ、戦い、そして無残に散った。リス
クを負ったのも高田さん。なのに、そこで実った果実を第三者が持っ
ていくのは、どうにも我慢できなかったんです」
榊原は、もう二度とかけることはないだろうと思っていた携帯電話の
番号を押した。
高田延彦の電話番号だった。
切望し、しかし絶望もしていた道。蜘蛛の糸のように細く、しかしそ
れ一本しかなかった細い道。それが、突如として輝ける光の道になっ
た。
高田は、自分にできる唯一のことをした。
「やらせてください!」
そう言って、頭を下げたのである。
さて、前田戦であるが、前田も一時期は「俺がやる」的なオーラを
醸し出した頃があった。やれ「交渉出来るだけの億という単位の
ファイトマネーを用意した」とか「リングスの代表と三番戦だ」と
か、それが、いつの日か「ヨットのアメリカス・カップにでる」とか
言う話になり、結局沙汰止みになった。
筆者は、なぜ前田戦が実現しなかったのか、という問いもヒクソンに
ぶつけている。
彼は笑顔で肩をすくめた。
「噂になっていたのは知っていたし、わたしとしても断る理由はなか
った。それでも戦いが実現しなかったのは、実に単純なことで、正式
なオファーが届かなかったから、ということさ。わたしの目の前に
書面で届いたオファーは高田さんともう一度やりませんかというもの
だけで、前田さんからは何もなかったんだ」
榊原・高田からのオファーをヒクソンは快諾し、PRIDE・1から
ちょうど1年後となる1998年10月11日、両者は再び東京ドー
ムで相まみえた。