1995年6月18日、高田は両国で行われたUインターの大会の
後、突如として「極めて近い将来に引退します」と宣言していた。
Uインターの興行は不振が続き、雪だるま式に借金が膨れ上がって
いた。
苦境から抜け出すべく、腹心の鈴木健と安生洋二が提案してきたの
は、あろうことか参議院選挙への出馬だった。渋る、というよりも
ほぼ全面拒否に近かった高田だったが、2人に押し切られる形で
決心を覆すことになる。
結局、高田からすればまったくもって本意でなかった出馬は、落選
という最悪の形で幕を閉じた。
ひたすらにプロレスラーの強さを信じ、強くなるためにはどうしたら
いいかを考えてきた高田だった。鈴木は、安生は、そんな自分の全て
を理解してくれている最高の同志のはずだった。
だが、参院選に出馬したことで、高田はとことん疲弊した。過酷な
選挙活動に加え、トレーニングができなくなってしまったことで、
筋肉がごっそり削げ落ちた。当選していればまだ報われもしたが、
とことん自分をいじめ抜いた見返りは何もなかった。
厭世観に飲み込まれつつあった高田にとって、ダメ押しとなったのは
鈴木たちが試合への出場を求めてきたことだった。
「出たくもない選挙に出ることになった。決めたのは自分なんだから
健ちゃんや安生に責任を転嫁するつもりはない。でも、彼らが話しを
持ってこなかったらそもそもなかった話なわけで、やっぱりひっかか
ってるところはある。そんな時に、試合に出てくださいと。出てくれ
なきゃ困ると」
選挙での惨敗から約3週間後、急ごしらえで作った身体で東京ベイ
NKホールでの試合に出場した高田には、さらなる追い打ち、だめ
押しのだめ押しが待っていた。
Uインターの若手のホープだった田村潔司が、リング上から高田と
の真剣勝負を直訴したのである。
「もうね、こっちはいろんなところを削られて削られて、肋骨も
脛もかじられまくっちゃってる気分なわけですよ。あの田村の言葉
を聞いたときは、ただただ勘弁してくれよとしか思えなかった。
肉体的にも精神的にもそんなもんできる状態じゃねえよって」
田村の要望に応えるため、ガウンを着たままの高田が、花道を進ん
できたが、田村のマイクアピールが終わると、そのまま控室に戻って
しまった。やってられるかっていう気持ちだったのだ。
あれよあれよという間に、高田は、ヒクソン・グレイシー戦に焦点
を合わせる事になる。
「ヒクソンと柔術の試合で数回引き分けたことのあるセルジオ・ルイ
スっていうブラジル人の柔術家をコーチとして呼んだのね。最終的な
チェックと、最後の自信をつけるために。で、スパーリングをやった。
身体のあちこちは痛かったけど五分と五分な感じなわけですよ」
気をよくした高田はセルジオに聞いた。
「今の俺にできる、一番効果的な戦法、戦略をアドバイスしてくれっ
て。そうしたら、まずは「寝るな」と」
高田は納得した。何しろ相手はヒクソン・グレイシーである。寝技
は彼のホームグラウンド。よし、わかった。寝ない。
「次のアドバイスが「殴るな」。殴ったらカウンターを合わせて飛び
ついてくるから、と」
これにも納得した。
「3つ目は「蹴るな」。蹴ったら足を取られるよ、と」
蹴りは自分にとって最大の武器の一つである。それでも、高田は妙に
納得してしまっていた。そうか、柔術っていうのはそういう技まで
持っているのか。聞いておいて良かった。
「で、最後にひとつ、大切なポイントがあるという。「スタンドで
組むな」。とにかく彼のまわりをグルグルグルグル回ってろって。
要は、ヒクソンに触るなってこと」
さずがに高田は唖然とした。ブラジルから呼び寄せたコーチのアド
バイスを忠実に守るなら、100%、いや200%勝機はないという
ことになる。
「でもね、彼は真顔で言うのよ。「自分にできるアドバイスはそれ
だけだ」って、うわーって感じですよ。俺って負けるためのアドバ
イスもらうために自腹きってブラジルからコーチを呼んじゃったの
かよって。嘘でもいいから「とにかく打って打って打ちまくれ」と
か「ローだってバチバチいけ」とか言ってほしかったんだけどね。
コーチはきっちりとギャラを受け取り、「今回私が君を指導したこ
とは、くれぐれも内密に」と念押しして帰国した。
目の前が真っ暗になる、という現象が、現実に起こりうるというこ
とを高田は知った。「大げさじゃなく、ガーッと視界が暗くなっち
ゃったのよ、あのアドバイスではなく“死刑宣告”をもらったとき
から。試合まではあと1週間か10日くらいで、いつもであればモ
チベーションもテンションもマックスになってなきゃいけない時期
なのに、うわ、あと6日しかない、おい、5日になっちゃったよ─
そんな感じ。毎日毎日、破滅へのカウントダウンを聞かされてる気
分だった」