「セロテープ」はれっきとした登録商標だということをご存じで
すか?
圧倒的シェアを誇る「セロテープ」が誕生したのは、戦後間もない
昭和23年のこと。
アメリカではすでに商品化されていたが、日本までは届いていなか
ったため、GHQ(連合軍総司令部)が当時、絆創膏メーカーだっ
た「日絆薬品工業(現ニチバン)に開発を要請したことが契機で
始まったのだ。
明治半ば───東京
歌橋又三郎は日本橋に「歌橋輔仁堂(ほじんどう)」という薬局を
開設していた。
仕事で知り合った東京大学の土肥慶蔵博士から「ピック氏硬膏
(こうこう)」の試作を依頼された。
「ピック氏硬膏というのをつくってもらえないか?
ピック氏硬膏というのは皮膚病に使う膏薬だが、品質が不安定の
ためいいのを探しているんだ」
「なんとかやってみましょう」歌橋は心良く引き受けた。
苦難もあった。
「時間が経つと変質してしまう、思ったより大変だ」
明治44年成人し、薬剤師となった息子の歌橋憲一も協力するよう
になり、ピック氏硬膏が安定し始めた。
「品質も良くなり、一貫生産もできるようになった」
「ウタハシ」ブランドでピック氏硬膏は売れ始めた。
大正7年、歌橋憲一は品川に歌橋製薬所を設立した。
歌橋又三郎は「わしはしばらく輔仁堂を続けるよ」と楽隠居。
その頃アメリカからゴム絆創膏が輸入され出した。
「これはピック氏硬膏と同じ製造方法でできそうだ。
研究してみよう」
ゴム絆創膏は1890年、アメリカのジョンソン&ジョンソン社
で開発され欧米に広まった。
日本でも明治時代陸軍により研究されつくられていた。
「ゴムを溶液で溶かし、人工的に乾燥させればいい」
大正9年、絆創膏を発売すると大いに売れた。
ところが、品質が悪く返品が相次いだ。
「暑くなるととける!」
「変質するわ」
「長くもたないぞ!」
そして大正12年関東大震災が襲った。
「工場の被害は少なくて助かったが、絆創膏もそのままだ…」
そこに、思ってもみなかった珍客が現れる。
「社長、陸軍の方がお見えです」
「救急用にこの絆創膏を全部買いたい」
「え!」
昭和に入ると、新しい技術を開発し、絆創膏の品質も向上、次々
と新製品を発表し、歌橋製薬所は、日本一の絆創膏メーカーとなっ
ていた。
時代は戦争へと突入、工場は軍の管理下におかれた。
「資材は確保できるが、経営まで口を出されてはかなわぬ」
昭和15年、資材調達のため全国の絆創膏会社が協力し「日本絆創
膏資材有限会社」を設立。
しかし昭和19年4月、歌橋製薬所は軍需工場となる。
国の企業整備令により全国24の絆創膏メーカーが歌橋製薬所に
統合された。
名称も「日絆工業株式会社」となり、歌橋憲一が新社長に就任。
そして終戦────。
昭和22年、憲一のもとにこんな知らせが届く。
「社長、こんなセロハン粘着テープが欧米で人気だそうです」
セロハン粘着テープは、アメリカのスリーエム社が開発したもの
で、自動車の塗装に使われており、その後一般にも広まったという。
「なつかしいな。ウチも10年前考案し、軍に納入していたぞ」
「あの当時は、一般に受け入れられないと思い、それ以上開発しな
かった」
「でもこれなら絆創膏の技術を使えば容易です。やりましょう」
同年12月───
GHQのスミス中尉の訪問を受ける。
「実はGHQで事務用のセロハン粘着テープを使っているが、本国
からなかなか届かず困っている。
こちらでそれがつくれないものか?」
「社長」
「うむ」と憲一は快諾。
タイミングよく一ヶ月後に完成した。
スミス中尉はびっくり!
「アンビリーバブル!
アメリカでもここまでするのに10ヶ月かかった。日本の技術は
すばらしい!」
憲一のもとにGHQからラブコールが届く。
「GHQから大量の注文が入りました」
「よし、アメリカに負けない製品をつくってやろう」
こうして品質の向上したセロハン粘着テープがつくられ、昭和23
年「セロテープ」として発売。
ディスペンサーも同時に発売。
ところが、まったく売れなかった。
新しい商品のため、どこにも理解されなかったのである。
宣伝活動を盛んに行い、デパート等への売り込みが続いた。
一年後、紙や布の粘着テープが売れ出すと「セロテープ」も認知
され始めた。
昭和28年、文具界で人気となり、ボールペン、マジックとともに
「セロテープ」は三大文具といわれるようになった。
昭和36年「ニチバン株式会社」となる。
ニチバン、「セロテープ」は現在も文具の必需品として、不動の
人気を保ち、年間7000万個の出荷がある。
おまけに、セロハンはパルプからつくられるので天然資源なのだ。