1963年、神奈川県生まれ。85年に第一次
UWFでデビュー。新日本プロレスとの業務提
携と新生UWFと経て、91年に高田延彦らと
UWFインターナショナルを旗揚げ。参謀役と
して数々の仕掛けを行い、“Uインターの頭脳”
と呼ばれる。
95年に退団後、周富徳の下で中華料理修行の
のち、99年にビル・ロビンソンをヘッドコー
チに招き「UWFスネークピット・ジャパン」
を設立。今に至る。
宮戸がプロレス界にはいろうと思ったのは「誰
が一番強いのか」知りたかったのではなく、猪
木とビル・ロビンソンを生で見て、そのあまり
の衝撃でプロレスラーになると強く心に誓った
のだという。
「レスラーになる決意の後、注2の夏休みに「将
来自分が入る場所を下見に行こう」と友達を誘
って新日本の道場に行ったんですよ。
そうしたら偶然道場から出て来たドン荒川さんに
『おまえら、一緒に走るか』とランニングに誘っ
ていただいて、そのとき、一緒に多摩川の土手を
走った背の高い若手選手が前田さんでした。
その後、道場でスクワットをやって、相撲までと
って、お風呂にまで入り、ちゃんこまで食べさせ
てもらった。
当時1ファンでしかなかった僕にとっては“運命
の一日”になりました」
「当時、前田さんは18歳か19歳。個人的にト
レーニングを教えてくださるようになって、『こ
れを読めよ』と本を渡されたり、食事につれてい
っていただいたり、本当にかわいがってもらいま
した」
のちのリングスとUインターの因縁しか知らない
人には信じられないかもしれないが、宮戸とプロ
レス界との関わりは、このように前田との“師弟
関係”から始まっている。
第一次UWFでデビューし解散。新日本と業務提
携時は新日の合同練習にも参加し始め、親日と溶
け込むように見えた。
その矢先、前田の長州蹴撃事件が勃発。宮戸は前
田からの連絡もなかったし、安生と一緒に翌年度
の契約更改の前日まで新日本と契約するつもりだ
ったという。
しかし、新日本との契約更改の前日、宮戸たちの
運命を変える一本の電話がかかってくる。
「合宿所の電話が鳴ったとき、直感で『高田さん
からだ!』ってわかったんですよ。だから、安生
さんと『この電話は絶対に新団体の話だ。高田さ
んに誘われても断ろうぜ』なんて話してたんです
でも、実際に高田さんから『一緒にやらないか』
と言われたら、僕も安生さんも『NO』とは言え
ませんでしたね。
新日本との業務提携時代から、練習をつけてくれ
るのも、メシに連れて行ってくれるのも高田さん
で、僕らにとっては完全に兄貴分でしたから」
そして新生UWFに移籍した宮戸であったが、
『UWFはプロレスではない』とするフロント陣
の売り込み方を否定的に見ている。
「そのうちメディアでの取り上げられ方も、UWF
の試合ではなく、チケットの販売方法や、イベン
ト的な演出みたいな話ばかりになっていたんです。
だから新生UWFでは、あれだけブームと言われな
がら、前田さんも高田さんもあんまり光っていなか
った。もったいなかったと思いますよ。カードの組
み方にしても、ただ対戦したことのないカードだか
ら組むとか、行き当たりバッタリな組み方で、これ
じゃつまんないよなと、ファン目線で思う自分がい
たんですよ。
いま思えば、そのあたりから『もし自分がマッチメ
ーカーだったら』とか『もし自分が社長だったら』
という思考が始まりましたね」
そして、宮戸の鬱屈の続くが、新生UWFの解散から
高田を持ち上げてUインターを設立。
様々な、仕掛けをセットし、新日本との対抗戦まで
フロントも兼ねてUインターを引っ張っていく。
このレビューは、あくまでもUWF時代を語るもの
なので、リングスとUインターの中傷合戦など、3
派に分かれたころの事柄は、「ぐーすけとりき」の
「1984年のUWF」に詳しいのでそちらをどう
ぞ。
https://ameblo.jp/kusuke6/entry-12246166907.html