またここからも前田の「解散宣言」に運命を変えられた
人物の登場である。
高田延彦だ。
前田と一緒にやっていくつもりのなかった高田は、宮戸
安生たちと行動をともにすることを決意する。
高田は宮戸たちが敬遠していた山崎一夫と中野龍雄を新団体
に誘い、さらに高田延彦ファンクラブ会長の鈴木健を営業
のトップに据えた。
UWFインターナショナル、通称Uインターの誕生である。
Uインターをひとことで言えば、アントニオ猪木に回帰
する団体であった。
アントニオ猪木の役を勤めるのは、華のある高田延彦だ。
一ヶ月に一回、大会場で高田が異種格闘技戦を行うという
もの。
殺人スープレックスの使い手であるゲーリー・オブライト、
元大相撲横綱の(カミさん蹴った)北尾光司戦では観客を
熱狂の渦に巻き込んだ。
話題作りには事欠かなかったUインターだったが、次も
また打ち上げ花火の一発だった。
1994年2月15日、Uインターは「プロレスリング・
ワールド・トーナメント」開催を発表。賞金は1億円!
前田日明・船木誠勝・天龍源一郎・橋本真也・三沢光晴
に、アポなしで招待状を発送したのだ。
以上5団体のレスラーのうち、呼びかけに応じたのは
前田だけであった。
前田はトーナメントに出場するのではなく、5対5の
対抗戦を希望。
Uインター側は、高田が
「前田さん。ごちゃごちゃいわんと、トーナメント一回
戦でやりましょう」
と呼びかけ。
参謀だった宮戸も、
「前田さん以外の選手は、何処の馬の骨かわからないの
ばかり。必要ない」
も発言。
一方、前田は
「うちの外国人選手は、世界大会でメダル何個もを取る
ような猛者ぞろい。宮戸、お前が馬の骨や」
ここで、安生が登場。
「とやかく言う必要はない。
前田さんは新生UWFで終わった人。
対戦すれば200%勝てる」
と暴言を吐いた。
前田は
「こいつらちょっとおイタがすぎるな。
大人なのに子供のままでいる「コトナ」や。
道であったら家族の前でも制裁を加える」
と応酬。
ここで不意に安生が登場するのだが、これは宮戸の策略
であったらしい。
「一生のお願いだから。
会社のためだから」
と、本来、先輩に対しては従順な安生に言わせたのだ
という。
安生も良識ある大人だったのだ。
さて、前田の発言に宮戸は戦々恐々としていた。
家族の前で制裁を加えるなどと、穏やかでない発言に…
宮戸はUインターの道場の扉に南京錠をかけていた
という。
「あのおっさん、なにするかわからんから」と…。
結局、Uインターは脅迫罪で前田を提訴しようとするが、
前田側は「格闘技界に多大なるご迷惑をかけたことを
陳謝するとともに、今後Uインターとはなんの関わり
も持たない」と絶縁宣言。
対抗戦問題は集結した。
ただ、ここでくたばらないのが宮戸である。
前年アメリカ、いや全世界の格闘技界に戦慄が走った
UFCである。
金網のオクタゴンに2人入って、出てくるのは1人。
という禁断の扉が開いたのだ。
宮戸としては、自分らも格闘技世界一を自称している
以上、目に付いたたんこぶを取らなければならない。
UFCで優勝したホイス・グレーシーによれば「私より
兄のヒクソン・グレーシーのほうが10倍強い」という。
それじゃ、ヒクソンを担ぎ出そうか、と考えたのだ。
1994年10月8日、日本武道館大会でグレーシー
柔術つぶしを宣言。安生をヒットマンとして送り込む
こととなった。
1994年12月7日、前日フィリピンパブで飲んだ
その足で、ロス行きの飛行機に乗りこんだ安生だったが
ロスのホテルに着くと
「もうむこうさんはまっている。マスコミも集まって
いる。早速顔を出してくれないか」
といわれ、グレーシー柔術アカデミーに到着。
「ビジネスの話をしに来ただけだ」と伝えようとする
が、有無を言わさず、マスコミシャットアウト、
道場生数十人で安生とヒクソンを囲み、ビデオ取り
も行った。
実はヒクソンのもとに日本人の友人から連絡があった
という。
UWFの連中が「ヒクソンがタカダから逃げている」
と言いふらしている。黙っていてはダメだ、と。
柔術潰しを公言し道場に来た以上、道場破りと捉え
られても文句は言えまい。
「道場破りに来た人間には必ず罰が与えられる。
そのことを示しておくための絶好の機会だと私は
思った。
私は彼の後頭部に何発かエルボーを入れ、再び仰向け
にさせると、散々に殴りつけた。
安生の顔は血まみれになり、腫れ上がって変形した。
潮時だと感じた私はチョークを決め、アンジョーは
自分が流した血だまりの上で失神した。」
安生、完敗である。
ここらへんから、Uインターの客入りが悪くなる。
宮戸による、高田ファースト主義に不満を持つ者も
増えてくる。
そして禁断の果実を食しようとするものが現れた。
というか、宮戸と田村以外の選手はそうならざるを
えないと覚悟を決めたのだ。
対新日本全面対抗戦である。
もちろん、結果は決まっている。
高田延彦は四の字固めで武藤敬司に敗北。
「やっぱり、最初が肝心だったね。
あの第一回で武藤に勝ってれば流れが変わったかもね」
とは高田の弁。
以降、Uインターはプロレスの中にどっぷりと浸かり
そして1996年12月27日後楽園ホールで最終
興行を行うことになる。
さてヒクソンである。
1997年10月11日、宮戸とは別の斡旋で、高田
とヒクソンが対決する事となった。
「PRIDE-1」である。
PRIDEは高田のためにつくられた興業だった。
しかし、高田は敗北。
一年後の同日(10月11日)PRIDE-4再戦が
組まれたが、あっけなく高田またしても敗北。
そして、ヒクソン打倒のため船木誠勝が打ち上げ花
火をあげたのは先述のとおりである。
1999年11月14日に「UFC-J」が東京
ベイNKホールで開幕。
山本喧一がUFC-Jミドル級王者に。
この楽屋裏で、安生洋二が前田日明の顔面を後ろから
ぶん殴り、前田は失神するという暴行事件が起きた。
温和な安生もよっぽど腹に据え兼ねていたのだろう。
暴行後、パンクラスの選手の中から「囲め囲め!」と
喚声があがり、船木が「救急車早く」とよんだ。
モーリス・スミスらが付き添って、前田を救急車に乗せ
安生には傷害罪、罰金30万円が請求された。
そして、時は流れて~
2002年、東京ドームで「PRIDE-24」が開催。
高田延彦が引退試合で田村潔司と対戦。
試合後、高田は田村に向かって
「お前、男だ!」と賞賛の声をあげ、
Uインターの同窓会の様を呈して、円満に大会が
終了した。
出席したのは、安生洋二をはじめ、垣原賢人、金原弘光
高山善廣、桜庭和志、山本喧一などである。
今度はUインターの同窓会だけではなく、「UWF」の
同窓会も行ってもらいたい、とつとに願う。
Uインターのブレインだった宮戸も、前田の引退試合に
も足を運び、仲も回復したという。
「兄弟」とまで若手時代からいわれてきた、前田と高田
の和解も見たい。
そして、キーマンは安生だ。
「後ろから人を襲うような人間とは話すことは何もない」
と断言する前田だが、安生が下の方からそ~っとわびを
いれれば、なんとかなるんじゃないか。
う~ん、前田兄ぃ相手じゃ無理か?
ふたりとも大人になってくれ。