全く意外なことに、馬場の帰国は一本の国際電話に
よってあっさりと決まってしまう。
馬場に電話をかけてきたのは、山口組三代目組長
の田岡一雄であった。
1957年秋、力道山は日本プロレス興行の社長
だった永田貞雄とケンカ別れした。
巨額の興行収入と放映権料をすべて自分のものに
しようとしたのだ。
しかし、力道山は興業に関してはまったくの素人
であったために、神戸芸能社の社長を務めていた
田岡一雄を頼った。
神戸芸能社の前進は山口組興行部。
美空ひばりが所属していたことで知られる。
力道山が急死して右往左往する豊登以下4幹部を
田岡は大いに助けた。
日本プロレスとグレート東郷との間でジャイアント
馬場の争奪戦が争奪戦が勃発したと聞いた田岡は、
自ら国際電話をかけて馬場に帰国を求めた。
馬場こそが興業に不可欠なスターだったからだ。
馬場自身は「アメリカに残ろう」と考えていた節
がある。
力道山死後の日本プロレスの将来を予測できなかった
し、豊登社長が自分をどのようなポジションに置くか
もわからなかったからだ。
しかし、馬場は田岡の依頼を断ることができず、帰国
を決意する。
ジャーナリストの田鶴浜弘氏が編集した「日本
プロレス30年史」には、馬場の帰国に関して次の
ような記述がある。
「大うけにうけて調子に乗り切ったのは二度目の
渡米の時だが、力道山が没し、彼は志半ばにして
日本のマットに帰るのだが、おそらく彼の本心は
日本に帰りたくなかっただろう。
だが、本家の事情はそれを許さず、彼は何よりも
本家を大事にした。
出処進退の折り目正しさ──というか、おかれた
運命に従順だったことが、華やかな日本マットに
「ジャイアント馬場時代」を開花させることになる」