ロサンゼルスにやってきた力道山は馬場に向かって
「ヒーローになったお前を迎えに来たんだ」とお世辞
を言った。
優秀な頭脳を持つ馬場は、粗暴な力道山の豹変ぶり
に驚いたものの、すぐに事態を察した。
この男は俺を必要としている。
俺に逃げられることが怖いので、これまでのように
高圧的な態度を取ることができないのだ。
力道山の事業欲は極度に肥大し、もはや誰にも止められ
なかった。
日本初のプロレス専用会場リキ・スポーツパレスや
サウナ風呂のリキ・トルコ、さらにはレストランを
経営し、東京にスーパー・マーケットを作る計画も
進めていた。
日本のマンションの嚆矢(こうし)である赤坂のリキ・
アパートは既に着工し、相模湖畔のゴルフ場レイクサ
イド・カントリークラブの建設も始まっていた。
資金はいくらあっても足りなかった。
そればかりではない。
ワールドリーグ戦には莫大な費用がかかった。
外国人レスラーへのギャランティは米ドルで支払わな
くてはならず、ロスアンゼルスのWWAのベルトを
一定期間買い取るためにも大量の米ドルが必要だった。
力道山にとって喉から手が出るほど欲しい米ドルを
稼ぎ出してくれるのが、ほかならぬ馬場正平だった。
1963年3月17日、馬場と力道山を乗せた日航機
が羽田国際空港に到着した。
空港には多くの報道陣とファンが出迎えていた。
銀座東急ホテルで行われた記者会見では「MR力道山
MR馬場凱旋帰国歓迎」と大書された大きな幕が
貼られ、馬場と力道山は金屏風の前で記者団の質問
に答えた。
馬場は報道陣から力道山と台頭の扱いを受け、力道山
はニコニコしながら「馬場ちゃん!」とよんだ。
馬場は仰天した。
日本プロレス界に君臨する暴君が、入門してから3年
に満たない自分に対して、公の場で敬意を払ったから
だ。
記者会見の席上、力道山は「自分はバディ・ロジャー
スに勝った」と記者たちに語った。
《ホノルルからロス、ニューヨーク、セントルイス、
ロスと回ってきた。
試合はセントルイスでバディ・ロジャースと戦って2-0
で勝った。
一試合だけだった。
あとはトレーニングに明け暮れたから調子はすごくいい。
ロジャーズはテーズに敗れてからは凋落の一途でマット
恐怖症にかかっているんじゃないか。
昔日の面影はまったくないようだ》
(東京スポーツ1963年3月19日)
──セントルイスに行った目的は…?
ロジャースを日本へ呼ぶつもりで行ったのだが、その前に
エキジビションマッチをやって実力を試したところ、話し
にならんので、呼ぶことはあきらめたという次第だ。
たとえ呼んでも、前NWAチャンピオンということで人気
は出るだろうが、センセーションを巻き起こすほどの試合
はできまい。
(「スポーツ毎夕」1963年3月18日)
馬場は隣で滔々(とうとう)とまくしたてる力道山の大ボラ
に呆れ果てた。
力道山はずっとロスにいたじゃないか。
アメリカでは誰も知らない力道山が、セントルイスでバディ
・ロジャースと戦えるはずもない。
ところが、極東の島国の支配者は天才バディ・ロジャースに
一切のリスペクトを払わない。
サンフランシスコの小さな日系人コミュニティの中だけでし
か試合のできない2流レスラーのくせに、日本に戻れば急に
でかい態度をとり、「ワシはロジャースに勝った」と平然
と嘘をつく。
しかも、ロジャースと一緒に大会場を何度も満員にした俺の
目前で。
力道山は馬場に対して「お前が俺の後継者だ」と言った。
後継者と呼ばれたものが、その地位を棒に振ってまで自分と
対立するはずがない。
そう考える力道山の2流のブライドが、馬場にはたまらなく
嫌だった。