▼4 最後まで「伊達者」だった独眼竜・伊達政宗 | ぐーすけとりきのブログ

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 お洒落で粋な振る舞いをする人のことを俗に
「伊達者」というが、この言葉は戦国武将・伊達政宗
に由来するものであることはよく知られている。


 豊臣秀吉が関東を鎮圧し、奥州遠征をしようとする
まさにその前に、政宗は死装束を身にまとって謁見し
秀吉から征伐を免れたというエピソードがあるほか、
秀吉の死後には徳川家康の6男。松平忠輝と長女
五郎八(いろは)姫を婚約させて家康との接近を図る
など、現代にまで伝わる正宗に関する話には、
人生を上手く立ち回ることが可能な生まれ持った
才能を感じることができる


 さて、そんな政宗であるが、関ヶ原の戦い(1600年)以降、
どのような人生を送ったのだろうか。


調べてみると、政宗はその後も伊達者として生きていたことが
わかる。


 たとえば、1635年6月、
参勤交代が制度化されたときのこと。
三代将軍・徳川家光が諸大名を前にして
「余は生まれながらの将軍である。
 今後、諸氏を家臣として遇する」
とのたまうと、家光の前に躍り出たのが政宗であった。


 そして、政宗はいう。
「命令に背く者あらば、この政宗に討手を仰せ付けられよ。
 即座に踏み潰して見せよう」と。


 こうして家光の心をグッとつかんだ政宗は
家光から何梃もの鉄砲を与えられたのだった。
その他の大名は「伊達中納言の申す通りに候」と
政宗の言いに従うしかなかったのだ。


 だが、政宗にも老いはどんどんと忍び寄る。
政宗はこの頃から既に体調が悪く、食欲不振や嚥下困難
の様相を呈していたのだ。


 1636年5月21日、江戸の桜田門外の藩邸に
将軍の家光が見舞いに訪れたとき、意義を正して
将軍にお目見えした政宗であったが、2日後には
小用後に自力で寝床に戻れないほどに体が弱くなり
25日の卯の刻、この世を去った。


 政宗はその最期、脇差を床の上に置いて
西(浄土)の方向を向いて合掌すると、そのまま倒れたと
伝わる。


 最後まで伊達者としてのエピソードに彩られた政宗であった。