悲しい話である。
ぐーすけがチャリで北海道一周して根室に
立ち寄った時に、市内の至るとこで目にした
看板である。「返れ 北方領土」
もっと前には「返せ!北方領土」といっていた。
ソ連・ロシアの顔色を伺いながら、
少しでも、領土が戻ってくるならと、いつからか
ソフトなイメージで叫んでいるのである。
北海道は、誰のものか。どの民族、国民が住むものか。
ロシアか日本か、争いがあるが、大きな一括りの物差しで
いえば、アイヌ人のものであろう。
明治に入って、明治政府は、アイヌ人を「土人」として
非人間的な扱いを強制していた。
もちろん、固有の領土など認めない。
「土人」という言葉が消滅したのは平成の世に
入ってからであった。
江戸時代は松前藩が北海道でラッコの皮とかを
アイヌ人から購入したり、地図の作成に
千島列島を含めて描いて江戸幕府に提出したり
していた。
松前藩は石高一万石の小大名で、北海道を独自の力で
治める力を持っていなかった。
アイヌ人を隷属させ、こき使うことで商売をやっていたのだ。
まだ、ロシア人の南下も起こっていなかった。
田沼意次は、最近、「過小評価されすぎだ」と
再評価されようとする向きがある。
意次は、重商主義をすすめ、
北海道の開拓にも力を進めてきた。
しかし、将軍が代わると、意次も失脚してしまい
老中・松平定信が登場。
白河の治とよばれ白河藩を飢饉から立ち直らせた「名君」だ
と呼ばれた。
しかし、これは一地方自治体(白河藩)で名君であっただけで、
日本全土を治世するには、ちょっと荷が重すぎたみたいだ。
定信は、北海道を緩衝地帯としてほったらかしにしておこう、
と考えていたようだ、人口も少ない、寒冷地だから、
荒れるに任せていれば、ロシア人も南下してこないだろう、と。
しかし、次第にロシア人の南下がはじまる。
定信引退後の幕府は、北海道を直轄地とした。
しだいに大黒屋光太夫がエカテリンブルクで庇護されて
帰国したり(幕府は光太夫を飼い殺しにした・帰国後江戸城内に
軟禁していた)。高田屋嘉兵衛・ゴローニン交換も
行った。
ちょっと寄り道…
高田屋嘉兵衛を主人公にした「菜の花の沖」は
司馬遼太郎の作品で
テーマが地味なものの、氏の書かれた本の中では
五本の指に入る名作である、とぐーすけは考える。
松脂の匂いを再現するのに、一冊の本を読んだ、とも
いわれるように、千石船、北前船など
緻密な描写で、江戸時代の商人の世界を見事に表現
している。
気が向いたら、一読することをお薦めする。
閑話休題
ロシア人の南下である。
外務省のホームページには以下のようなことが
表記されている。
「日本はロシアより早く、北方四島
(択捉島、国後島、色丹島及び歯舞群島)の存在を知り、
多くの日本人がこの地域に渡航するとともに、徐々に
これらの島々の統治を確立しました。
また、ロシアの勢力がウルップ島より南にまで及んだこと
は一度もありませんでした。」
→(間違い)・・・日本がロシアより早く、
北方四島の存在を知ったという
歴史的根拠は実はない。
1798年に近藤重蔵が「大日本恵登呂府」の碑を立てる前、
そこにはロシア人の立てた十字架があった。
そして日本やロシアがこれらの島々を支配下に置く以前、
千島列島には長い間アイヌ族が住んでおり、
択捉島のアイヌ人たちはロシアと交易していた。
日本もロシアと同様に、19世紀まで長い間続いた
アイヌの生活空間に対する侵略者にすぎない。
幕府とロシアとの接触が行われるうち
これは、領土問題の構築が必要だ、と思われるようになった。
さて、この様な経緯を辿(たど)ってきた日露両国の国境ですが、
これらはあくまでも「暗黙の了解」に基づくもので、
正式な国境は確定されてはいませんでした。
何故かと言えば、鎖国体制下の日本とロシアの間には、
正式な国交関係が無かったからです。
しかし、そうは言っても、
「暗黙の了解」はあくまでも「暗黙の了解」でしか無い訳で、
ゴローニン事件に伴う両国当局の接触や、
北方海域における通商・漁業紛争等から、
国境問題を曖昧にしておけなくなった日露両国は、
国境確定交渉を始めました。
そして、安政元(1855)年、『日露通好条約』が締結され、
日露両国の国境は択捉島以南(南千島)が日本領、
得撫島以北(北千島)がロシア領として確定されたのです。
ちなみに、樺太は従来通り国境を定めず、
両国民雑居の地とされました。
明治8(1875)年、日露両国は、
『千島・樺太交換条約』を新たに締結しました。
この条約では、日本が国境が未確定だった樺太全島に
対する領有権を放棄する代わりに、
ロシア領とされていた得撫島以北の
「千島列島」 ── いわゆる北千島を譲渡されました。
ちなみに、この条約では、日本がロシアから譲渡された
「千島列島」について島名が一つ一つ列挙されていますが、
それらは得撫島以北の18島(北千島)であって、
択捉島以南の「北方領土」(南千島)
は含まれていませんでした。
その後、日露両国は、
朝鮮半島や満州の権益を巡って関係が悪化し、
明治37(1904)年、遂に両国は戦争に突入しました。
いわゆる「日露戦争」(1904-1905)です。
戦争は、当時、「世界最強」と謳(うた)われた
ロシアのバルチック艦隊を日本の連合艦隊が撃滅した事で
雌雄は決しました。
しかし、日本にこれ以上戦争を継続するだけの余力が
最早残っていなかった事と、
ロシアにも国内の反体制勢力が急速に台頭した事等によって、
両国共に戦争継続どころではなくなり、
明治38(1905)年、米国大統領セオドア・ローズヴェルトの仲介で、
米国ポーツマスで講和条約が締結されました。
これが、『ポーツマス条約』(日露講和条約)と呼ばれるもので、
日本は「戦時賠償」として、従来の領土(千島全島)に加え、
北緯50度以南の樺太 ── いわゆる「南樺太」を獲得したのです。
そして、いよいよ時代は昭和を迎えます。
昭和20(1945)年8月15日、
日本は『ポツダム宣言』を受諾し、連合国に対して降伏。
ここに4年に及んだ「大東亜戦争」(太平洋戦争)は終結しました。
終戦から3日後の8月18日、ソ連軍がカムチャツカ半島を越えて、
千島列島に侵攻。このソ連軍の侵攻によって、
南樺太・千島全島が占領されたのです。
(何とこの時、ソ連軍は余勢を駆って、
北海道から北日本まで占領する予定だった!!)
その後、日本は連合国軍総司令部(GHQ)による占領支配を
受けましたが、昭和26(1951)年9月8日、
サンフランシスコ講和会議に出席した日本全権の
吉田茂・首相が、『サンフランシスコ平和条約』に調印。
ここに日本は国際社会に正式に復帰しました。
そして、本条約第二条(c)(以下に記載)
<サンフランシスコ平和条約>(抜粋)
第二条【領土権の放棄】
日本国は、千島列島並びに日本国が
千九百五年九月五日のポーツマス条約の
結果として主権を獲得した
樺太の一部及びこれに近接する諸島に対するすべての
権利、権原及び請求権を放棄する。
に基づき、日本は、千島列島と南樺太に
対する領有権を放棄しました。
しかし、ここで言う「千島列島」とは、
『千島・樺太交換条約』によって獲得した「千島列島」
── いわゆる「北千島」の事であって、
決して、現在、「北方領土」と呼ばれている
「南千島」は含まれていないのです
ちなみに、ロシア(及び旧ソ連)は、
『サンフランシスコ平和条約』における、
日本の千島列島・南樺太の放棄と、
『ヤルタ秘密協定』における以下の条項
<ヤルタ秘密協定>(抜粋)
「1904年の日本国の背信的攻撃により侵害された
ロシア国の旧権利は、次のように回復される。
樺太の南部及びこれに隣接するすべての島を、
ソヴィエト連邦に返還する。
千島列島は、ソヴィエト連邦に引渡す。」
を楯に、千島列島(ロシア側の主張では
「北方領土」も含まれると言う)
と南樺太の領有を正当化しています。
しかし、『サンフランシスコ平和条約』に
旧ソ連(ロシア)が調印していない事と、
日本が何ら与(あずか)り知らない所で決められた
『ヤルタ秘密協定』に、
「国際法」としての拘束力が無い事から、
ロシアに「北方領土」を領有する何らの
正当性も無い事は明白です。
以上見てきた様に、歯舞群島・色丹島・国後島・択捉島の、
いわゆる「北方領土」は、歴史的経緯からも、
国際法の見地からも、「日本の領土」である事は
疑うべくも無い事実なのです。
終戦から三日後の8月18日、
ソ連がカムチャッカ半島を越えて
千島列島へ侵攻。
日本人には、終戦は玉音放送のあった8月15日だが
国際的には、無条件降伏文書調印の9月2日が終戦の
日とされている。
ソ連は、こう解釈して南千島の領有を正当化してきた。
戦後、『サンフランシスコ平和条約』に基づき、
日本が領有権を放棄した千島列島(北千島)と南樺太。
そして現在、それらを領有しているロシア(旧ソ連)。
しかし、『サンフランシスコ平和条約』には、
日本による「領有権の放棄」は明記されているものの
、旧ソ連(現・ロシア)への「領有権の移管」については
只の一言も明記されていないのです。
(つまり、新たな「所有者」は決められていない事になる)
一方、旧ソ連が「領有の根拠」とした
『ヤルタ秘密協定』ですが、
これも、あくまでも「秘密協定」であって、
国際法に照らせば何らの正当性もありません。
そう考えると、仲間内(米英ソ)の勝手な打ち合わせ
(ヤルタ会談)で取り決めた「内輪の約束」を
「領有の根拠」としている訳で、ロシア(旧ソ連)は、
「北方領土」(南千島)だけで無く、
千島列島(北千島)や南樺太をも不法占拠していると言えるのです。
ちょっと、右寄りの意見を抜粋させていただいた。
「北方領土は日本固有の領土だ」とするものである。
しかし、高校の教科書にも、同様の表記があるので
この話が、日本人の最大公約数的なものに
なっていくのかもしれない。
しかし、ちょっとまてよ。
よくよく調べてみると「北方領土」という言葉は、
終戦直後にはなかったのである。
なぜ「北方領土」と言うの?
日本は、1951年に結ばれたサンフランシスコ条約で、
千島列島を放棄(ほうき)しました。
「千島列島は日本のものではありません」と
世界に向かって約束(やくそく)しました。
クナシリ島・エトロフ島は千島列島の南のほうにあるので、
「千島列島南部(ちしまれっとうなんぶ)」
「南千島(みなみちしま)」と呼ばれていました。
サンフランシスコ条約を結んだとき、日本政府は
「クナシリ島・エトロフ島はサンフランシスコ条約で
放棄(ほうき)した千島列島に含まれるので、
日本の領土では有りません」と言っていました。
ところが、それから5年後の1956年になると、
日本政府は「サンフランシスコ条約で放棄(ほうき)
した千島列島にクナシリ島・エトロフ島に含まれません」
と言いました。
そうするとおかしなことになります。
「サンフランシスコ条約で千島列島は放棄(ほうき)
したけれど、南千島は千島列島ではない。」
1956年になってから、言うことを変えたために、
日本語としておかしなことになってしまいました。
そこで、日本政府の主張が正しいと感じるように、
「北方領土」と言うようになりました。
国会で「北方領土」のことばを最初に使った人は、
外務省(がいむしょう)の下田武三(しもだたけぞう)さんで、
1956年3月10日のことです。
クナシリ、エトロフ、シコタン、ハボマイのことを
北方領土と言うようになったのは、
1956年からですが、
1960年までは「北方領土」よりも
「南千島」といわれることのほうが多かったようです。
1964年になると、これまでの「南千島」ではなくて、
「北方領土」と言うように、
政府は国民に指図(さしず)しました。
これによって、「北方領土」と言うと、
クナシリ島・エトロフ島・シコタン島・
ハボマイ群島のことになりました。
もっとも、1970年代は「北方領土」のほかに
「南千島」の言い方も行われていたので、
「南千島は、千島ではない」と、
わけの分からない言い方がされることもありました。
最近は、「南千島」はあまり使われず、
「北方領土」が使われています。
…と、言うように
国際法的には、日本政府の「後出しジャンケン」
と思われてる向きがあるのである。
メドベージェフは、いった。
「1cmとも領土を渡すな」と。
このように、日露間ですったもんだの
やり取りがおこなわれ、
橋本・エリツィンで、ソ連崩壊で、日本チャンスだったのに、
風はロシアにふき、ロシアは天然油田のカードもちらつかせている。
両首脳とも、「2000年度までに解決する」と
いってたのに、退陣した。
あとは、安倍さんとプーチンさんの勝負である
アイヌの人々の復権とともに、
日本人として叫びたい
「返れ、北方領土!」