▼7 落としどころをどうつけるか・恐ソ病と恐日病 | ぐーすけとりきのブログ

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 事ここに至って日本の大本営も事態の深刻さを認識し、第23軍
を救うために増援軍派遣を決定し、日本軍10万の精強部隊が
ノモンハン付近に集結した。これを見てスターリンは恐怖に
震え上がった。3万にも満たない少数の日本軍を相手に、23万の
ソ連の大軍がこれだけの苦戦を強いられているのに、この上さらに
10万の日本軍の増援部隊を相手に戦えば、ソ連軍は壊滅する
だろう。もしそうなれば外モンゴルもソ連の支配から離れていく
に違いない。このように判断したスターリンは、9月に入るや
いなや直ちにリッペンドロップを通じてヒトラーに停戦の仲介
を依頼した。


 その直前の8月23日に調印された独ソ不可侵条約は、全世界
を驚倒させた大ニュースであったが、これもノモンハン事件の
処理に手を焼いたスターリンが、その早期解決を図るべく、
ドイツに急接近したと見るのが正しい。


 対ソ全面戦争を可能な限り回避する方針でいた日本政府は
ドイツの仲介を受け入れ、9月15日に急遽停戦が成立した。
実はソ連は8月下旬からすでに日本に停戦を申し入れていたのだが
日本から回答がないのを見て、焦慮のあまりついにドイツに
泣きついたのである。日本が恐ソ病にかかっていたのが事実だが
ソ連はそれ以上に恐日病にかかっていたのである。


 ソ連の方から日本に停戦を申し入れてきた、という事実は伏せ
られていた。もし関東軍がそれを知っていたら、停戦を拒否
していたことであろう。もし日本が停戦に応じずソ連軍に対して
本格的な反撃に移っていれば、その後の歴史は変わっていたかも
知れない。