「中外物価新報」は、三井物産の中の
「中外物価新報局」から発行されていた
ことは先に述べた。
しかし、明治15年には三井物産より独立。
(その後、昭和16年には三井物産の保有する
全株式の引取りを完了、完全な自社経営となった)
さらに明治22年には「中外商業新報」と題字を
改め、政治や内外のニュースも掲載するように
なった。
この時から、「経済中心の綜合紙」という、今に
つながる日経の基本スタイルが始まったのである。
「中外商業新報」は、第二次世界大戦下、新聞統合令
を受けて日刊工業新聞、経済時事新報の2社を合併
さらには11業界紙を買収し「日本産業経済」となった
が、戦後の昭和21年、現在の「日本経済新聞」に
さらに題号を変更、再スタートを切った。
その後は、日本経済の高度成長とともにその地歩を
固め、現在の300万部体制へと進んできた。
「日経は他紙に先行してページ数を増やしたため
広告を収容しやすい。
他の新聞だと、スペースがないのでしばらく待って
くださいなんていうところもあるんだが、日経は
経済記事が多いだけでなく、広告でも前向きに
いつでも引き受けてくれた。
だから、企業としては日経に乗り換えるところも
増えてくる。
そんなところが、日経の成長の一因になっていた
と思う」
と、ある企業経営者は、日経の成長を
分析している。
その一方で、69年には、米マグロウヒル社と
提携し、日経マグロウヒルを設立、積極的に雑誌
分野への展開を開始。
さらに同年、経営の行き詰っていた東京12チャンネル
(現テレビ東京)の経営も引き受け、テレビ分野も
その傘下に収めた。