戦争責任の取り方~東条英機の場合 | ぐーすけとりきのブログ

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1946年5月3日、東京裁判が始まった。

46年6月に入って検事側は、張作霖爆殺事件、満州事変、

日中戦争、日米開戦と、戦争の経緯を順に明らかにしていった。

この間、キーナンは米国で「天皇は戦争犯罪人として裁判しない」

と表明している。


「天皇陛下に御責任はありませぬ」

47年12月26日、A級戦犯東条英機は、法廷に

出廷した「口述書」でそう述べた。

「この戦争は自衛戦争であり、現時承認せられたる国際法には

違反せぬ戦争なりと主張します」

「敗戦の責任については当時の総理大臣たりし私の

責任であります」


他の被告が「消極的な自己弁護に終始」したなか、

東条は、日本の立場を正当化しつつ、敗戦の責任は

自分にあると述べた。


31日、東条に対する反対尋問が行われた。

そのなかで東条は「日本国の臣民が、陛下の御意思に反して

かれこれするということはあり得ぬことであります」

と発言した。

実際、東条といえど、天皇の意思に反して戦争を始めることは

できなかった。

しかし東条のように言ったのでは、天皇に戦争責任が

及ぶことになる。


天皇無罪論に立つ主席検事キーナンは、

東条に証言を撤回させねばならなかった。

そのため、検察側証人の旧陸軍軍人、

田中隆吉らを通じてひそかに東条を説得した。


翌48年1月6日、東条が法廷で証言した。

天皇は、自分の進言を受けてしぶしぶ開戦に同意したと述べ、

前の証言を修正した。


逮捕時、自殺に失敗して大方の怒りを買った東条だったが、

風向きが変わった。

「電車の中などで、「東条は人気を取り戻したね」などというのを

耳にすることがある。

本社への投書などにも東条礼賛のものを時に見受ける。

一部に東条陳述共鳴の気分が見え隠れしていることは

見逃してはならない。」(8日付天声人語)


一方、人々は総じて裁判に無関心であった。

ある雑誌がこう指摘した。

「われわれは「戦犯」と称される一連の戦争扇動者が

登場したとき、拍手喝采をもって彼らを迎え、

失脚したとき、人々にならってこれに唾をかけ、

そして、……今ではもうほとんど彼らのことなど

忘れている」


「デス・バイ・ハンギング(絞首刑)}

東京裁判の法廷に裁判長ウェッブの声が響いた。

1948年11月12日、

元首相の東条英機ら7名に絞首刑、

元内大臣の木戸幸一ら18人に禁固刑が言い渡された。


作家大仏次郎は、この法廷を記者席で傍聴した。

「悪かった」と誰も言わなかったのが不思議なような

心持ちがした。