もう一人の怪物、力道山 | ぐーすけとりきのブログ

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力道山は、確かに純粋で人の良い一面を持っていた。

笑った時の表情など忘れがたいものがあるが

それはほんの表面だった。

猜疑心の強さ、傲慢さ、酒癖の悪さ、金銭への執着など、

調べれば調べるほど、一ファンとしては戸惑うことが多い。


力道山の身近にいた者たちは、皆その人間性を

否定する。

たとえばアントニオ猪木が靴を履かせようとした際に

動物を扱うように靴べらで顔を叩かれて

「いつか見返してやる」と暗い怒りを腹に

溜めていったのは有名な話であるが

一方で力道山に可愛がられていたと言われる

ジャイアント馬場でさえ

「人間として何一ついいところのない人でした」

と言っている。


力道山の出身地は現在の北朝鮮当地範囲内である。

金信洛というのがかつての名前だ。

力道山が内地日本の大相撲に誘われたのは

1938年シルム(朝鮮相撲)で13歳で参加して

3位入賞したときだ。

二所ノ関親方が猛烈にスカウトしてきた。

家族は大反対だったが

力道山は家族に黙って逃げるように日本へと向かった。


日本の敗戦で力道山は変わったと言われる。

二所ノ関親方は愛弟子の変化をこう嘆く。

「入門から敗戦時までの力道山はとても素直で

稽古熱心でした。だが、敗戦後は気持ちが変わったのか

性格も一変した。

彼の戦後の生き方は先輩も師匠もありませんでした。

周囲の者を踏み台にして、自分の野心だけを

満足させていく…」


力道山は真っ赤なインディアン社の1200ccの大型バイクで

本場所会場まで乗り付けた(インディアンというのは会社名で

ハーレーダビットソンやカワサキやホンダみたいなもの)

ファッションにも気を使う力道山は

上下スーツに革靴で決めていたり、

冬は革ジャン、夏はアロハシャツを着て

このバイクを駆っていた。

朝青龍も可愛いものである。


戦後、力道山は番付がなかなか上がらないのは

民族差別のせいだとして

大相撲はから決別した

そして海のものとも山のものとも判別のつかない

プロレス界に身を投じた。

当時の写真を見ると、力道山がいかにこのトレーニングに

真剣に取り組んでいたかがわかる。

腹の出た相撲取り体型がみるみる変わっていっている。

確かにスパーリングで鍛えた筋肉ではなく、

ウエイトトレーニングで筋量を短期間で増やした

だけのものではある。

本当の実戦力をつけたわけではない。

しかし力道山の真剣さを、この体型の変貌ぶりが

証明している。

力道山にはプロレスをビジネスとして成功させ、

何としてでも日本でのし上がろうという

強いモチベーションがあった。


1953年7月1日「日本プロレスリング協会」を発足。

協会トップには政財界から大物のメンバーが並ぶ。

会長    酒井忠正(横綱審議委員会委員長)

理事長   新田新作(新田建設社長)

常務理事 林弘高(東京吉本社長)

       永田貞雄(日新プロ社長)

理事    今里広記(日本精工社長)

       加賀山之雄(国鉄前総裁)

       吉田秀雄(電通社長)

       松尾國三(雅叙園観光社長)

       古荘四郎彦(千葉銀行頭取)

顧問    萩原祥宏(右翼団体元黒龍会)

       大麻唯男(衆議院議員)

相談役   永田雅一(大映社長)

       出羽海秀光(相撲協会理事長)


これに対し木村政彦は数少ないタニマチ(後援者)にも

連絡をとっていない。


ユセフ・トルコがこう言っている。

「リキさんはね、ほんとに暴力的だった。

ひどいことを下の者にしてたからね。

だから俺言ったんだよ。何回も。

リキさん、あんたそのままでは畳の上では

死ねないよと。

結局そうなっちまったでしょう。

だけどね、彼は政治家とか上の人に何か

頼むとき、今度はほんとに魅力的なところを見せるんだ。

こう、正座してさ。ビシッと居住まいを正して

「よろしくお願いします」って頭を下げる。

それでその後にニコッと笑うんだ。

あの大きな体でそれをやられると

上のものはまいっちゃうよ」


力道山はパトロンを作る天才だったのだ。

詳しくは言わないが、力道山に上げ膳据え膳で

力を貸したものが、手痛い力道山の裏切りにあい

割腹自殺をしている。


また後援者がすごいため

ブック(こういうふうに試合をしようというシナリオ)

を自由につくれるので

力道山が負けることはなく

力道山は日本のヒーローになっていくのだ。