新渡戸稲造の人となり | ぐーすけとりきのブログ

ぐーすけとりきのブログ

ブログの説明を入力します。

病院の待合で、25歳くらいの兄ちゃんが

新渡戸稲造の「武士道」を読んでいたので

かっけーじゃん、とおもって

「武士道」を読もうと思ったのだが

手じかに、星新一の「明治の人物誌」という本があったので

読んでみた。


祖父の伝が三本木という地方を、十和田湖から水を引くことで

農地化した。

そしてここで初めて稲の収穫が成されたときに

生まれたので、稲造という名前がつけられた。


なんども海外に留学、35歳で極度の神経衰弱におちいり、

静養のためカリフォルニアの南部の海岸に移り住んだ。


病状は一年半ほどで快方にむかい、時間の余裕もあり

新渡戸は英文による著書を書き上げた。

「武士道」で<日本の魂>という副題がついている。

武士道の体系から説き起こし、義、勇、仁、礼、誠、忠

克己などの章にわけて、

日本における独自の精神的秩序を論じている。

その根本は恥を知る、すなわち名誉を守る点にある

としめくくった。


各国への留学のほか、国際的な要職にも就き

明治39年4月第一高等学校の校長に就任した。

もっとも、新渡戸の名を、ほとんどの学生は知らなかった

英文の「武士道」はアメリカのセオドア・ルーズベルトが

絶賛し、各国語で訳され、海外では有名だったが

その邦訳が出たのは、校長就任の2年後だったからである。


講堂に集まった学生たちを前に新渡戸は語った。

「…いままでの教育はメンタリティすなわち知、モラリティ

すなわち徳、バイタリティすなわち体、この3つに重点を

おいてきたが、それだけでは個としての人間しか出来ない。

これにくわえてソシアリティすなわち社交的観念がなくては

全体としての人間は完成しない。

口先のうまい人になれと言うのではない。

実社会で円満な活動のできる

人間になってもらいたいのである。…」


しかしこれを質実剛健の伝統を崩すものと受け取る

学生もおり、校長への信、不信をめぐって学内で討論会が開かれた

反対派はこう論じた。

「某新聞は先生を、八方美人と評している。

それがソシアリティの本質では困るのだ。

運動会のとき、夫人のための見物席を作るなど

何事であるか…」


いっぽう支持派も発言し、激しい議論となった

新渡戸はそばで静かに聞いており

最後に立って自己の理想を語った。そして

「…何十年か後、ひとりでもこの学園を訪れて

わたしのことを思い出してくれれば、

それで十分満足である」

とむすんだ。


他人の意見の尊重と、みずから示した謙虚さは、

みなに大きな感銘を与え

反対派から賛美者に変わる者もでた。


インフルエンザが流行したときは、このような講演をした。

「葉書一枚でよいから、郷里の家族に出しなさい。

文章を考えるのが面倒なら、無事勉強の四文字だけでもいい。

金がないのなら、申し出なさい。

一枚ずつあげるから」

その日売店の葉書は売り切れたという。


その後アメリカ大統領ウイルソンが国際連盟の下敷きをし

(皮肉なことにアメリカは孤立主義を選んだが)

事務総長にはイギリス人のドラモントが決定した。

主要国から数人の事務次長を出すことになり、

日本にもそれが求められた。

誰がいるだろう?

あ、そうだ、新渡戸がいた。

寛容なフレンド派の信者、夫人がアメリカ人、

そしてむやみと国威の発揮をしようとしない。

そのため、かえって日本への評価を高めることになった。


8年間勤務し、次長を辞任した。


その後健康を害し

アメリカの病院で手術を行うが

その結果はおもわしくなく、夫人にみとられて、世を去った。


後でわかったことだが、

健康の回復を待って、駐米大使に任命する件が

内定していたという。