近代日本の文学史には、なぜくさい息を吐いて私生活を吐露する私小説が多いのか | ぐーすけとりきのブログ

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日本には根の深い私小説の流れというものがあった。

近代文学は、結果的に全部私小説の流れを汲んでいるといってもよい。

では、日本の文学の流れが何故そうなったのか。

私小説は自然主義リアリズムというものがうまれてきたもの結果として出てきたものである。

文学の西洋化を目指し、目標とすることが近代文学の歩だった。


ところが不思議なことに、西洋化を目指した文学運動の帰結としてそこから生まれて出てきた作品は恐ろしいまでに日本的な実感主義に終始していた。

嘘のない生活をありのままの姿に描く、つまり作り話を嫌う、それがリアリズムだと誤解されたのだ。


わが国の私小説形式に最初の定型を与えてきたものといわれたのが、明治40年一世を風靡した

田山花袋の「布団」である。人間の

真実を追究するには、作家の実生活上の経験をそのまま語るに勝る方法は無いと考えられたのだ。

どうしてこんなレベルの告白小説が、文壇の主流を成したのか理解することはできないけれど、

田山花袋は社会人としての自分の恥を書き、家長としての面目を無視し、これこそが人間の真実だと自分の弱点をわざと暴き立てたものである。

この小説が型となって島崎藤村とか、岩野泡鳴とかいった作品が相次いで出版され、世に言う自然主義の代表者はことごとく作家の身辺に取材した告白小説を続けるようになる。


これが進んで、極端に言えば太宰治なんかは、今度は自分がやってもいないのに、酷い生活をしていたようなドラマを描く。つまり酷い生活を演技して、それを芸術に仕立てあげようという場面がある。

告白の嘘を逆手にとって、真実という嘘を演技するのある。


オチもつけず、起承転結もかんがえず、読者の反応も無視して、ただひたすら、自分の周りにおこったことをだらだらと垂れ流す。

それが面白いという人の気が知れんわな。

(ほぼ全部「西尾幹二のブログ論壇」からの抜粋であることを併記しておきます。)