土曜日の秋の夜長に、長編アニメーションを3時間、鑑賞しました!




『イザヤからの手紙』です。




見終わって、懐かしい優しさに包まれました。確かに、私も、こんな優しさは、知っている。それこそが、誇りある生き方なのだとしたら、なんとありがたいことだろう。周りには、このような優しさの場面は、よく見られる。私達が末裔だから?ありふれるほど当たり前に染み込んでいるのか?ありがたい。ありがたい。




劇中で、ある部族の長が、自分は怒りっぽくて、なかなか優しくはなれない、ゆるす事が難しい、と正直に告白する場面がありました。すると、イザヤさんは、それを正直に見つめる事が出来ることが素晴らしいのです、そんなあなたを心から尊敬しています、というようなことを語りました。それを聞いた長は、すっかり心が穏やかにほどけて、自分も優しくなれると信じられるようになったのでした。




優しさも知っているけど、そうなりきれない私もいます。でもこのままで、進んでいけば良いのだと分かりました。正直に自分を見つめて生きていきます。




何万人もの人々が数千キロを旅して来た歴史は、これまでうっすら耳にする程度でしたが、こういうことだったのか、と驚きとともに認識できました。




お年寄りや身体の不自由な人に優しく、皆で助け合いながら、希望へ向かって歩む道。現実的に考えたら非常に過酷な道なのに、お互いを思いやり、時々出会う悲しみは愛おしさへと昇華して、どんな困難も乗り越えて行けたのは、愛で生きる、という誇りがあったからなのでしょう。




そんな彼らは、マナの壺に五穀の種を入れ、稲作を伝えた。これは、いわゆる弥生人のことか?そして、彼らを迎え入れたサルタヒコやセオリツヒメは、縄文人ということか?




少し前の私の聞きかじりの浅はかな知識では、弥生人が縄文人を滅ぼし、日本をのっとった、そしてそれまでの歴史と神々を封印した、という理解でした。




でも、のっとったのではなかった、共存してきたのだと思えました。それに、もっと遡れば、もとはここがルーツなのだと、劇中でも語られていました。(レムリア?縄文?まだ理解不足です。)




弥生人を悪者に見て、分離の価値観に振り回されていたことに気づいたのです。




空海は闇側だった?とか

神社や寺には闇があった?とか

生贄の儀式をしてきた彼らは闇側なのか?とか




玉石混交の氾濫する情報の中から、少し前に私が出会った、気が遠くなるほどのショッキングなデクラスも、それが分離を強めるならば、真実ではなかったのです。




全ては一つに繋がっている。それだけが真実。




劇中で流れる、この歌、とても美しくて、声に聴き入ってしまいます↓




父や母から伝わった、優しさ。それははるかに遡る祖先から、伝わってきたものだったのではないだろうか、と確信しています。