おとついから、気分が沈んで、身体も重いのです。
思い当たるふしが二つあります。
まず、一つ目。
伯父さんが亡くなったこと。亡くなったこと自体ではなく、亡くなったことに対する自分の反応に、罪悪感なのか、モヤモヤしたものが心にわいてきて、気分が沈んでいるのです。
めったにお会いしない伯父さんだったからなのか、人はもともと光だから亡くなると光に戻る、と知ったからなのか、涙が出ません。
そのくせ、弔電を送ってあげてね、と母に言われ、弔電を送る経験も初めてなので、例文集を読んで、よくある一般的な文章を引用して送った自分。
なんだか、この弔電…。これで良かったのか?
本当は、
「伯父さん、身体をぬいで、光に戻ったのですね!一生を無事まっとうされて、最後は身体の苦しみもあったとのことで、本当にご苦労様でした。新たな旅立ち、おめでとうございます!」
と言いたい気分なのに・・・。
でも、そんなこと言ったら、まず失礼だし、親戚から変な目で見られる・・・。身近な人を亡くして悲しんでいる人に、共感出来ない自分・・・。
こんな、人からどう見られるか、を気にする自分が出てきて、まだまだ、ニューアース(エックハルト・トールさんの著書より)の住人にはなれない、と、こんな自分にがっかり。
ちょっと、ちょっと、伯父さんは、お亡くなりになったというのに、あなた、何!?自分自身の反応にがっかりしているの?どこまで利己的なの!???
確かに、想像してみれば、私にもわかります。
身近な人が亡くなれば、ショックだし、悲しみも涙もあふれることでしょう。
そこにいた肉体が、いなくなること。
生きている時なら絶対してはいけない、身体に火をつけるということを、亡くなった後は、荼毘に付すために、いとも簡単に、肉体を燃やしてしまうこと。今そこにある身体が燃えて灰になってしまう、ということ。
もう、声も聞けない、手も握れない、笑顔も見られないこと。
本当に、悲しい。人が一人亡くなるということは、本当に悲しいことです。
ただ、悲しみの深さは、その人の立場それぞれで、それは当たり前のこと。最も悲しんでいる人に対する思いやりと、亡くなった方に対する敬意を忘れなければ、それで良いのだな、と、このブログを書いているうちに、気付きました。
光にかえった、その名も“光(ひかる)”おじさん。
この間、偶然にも“天国への階段”と自分で名付けたピアノ曲をしきりに思い出していました。今度はこちらのおじさんが、今、階段を昇っていっているのだな、と天国への階段をイメージしています。