日本は,いつ何処で「負けるような戦争を始める」方向へ踏み込んで行ったのか。
満州事変がそもそもの発端ということになるだろう。
「あの鉄路爆破こそ現場の暴走,下克上の最たるもの」と半藤一利が指弾する。
戸部良一教授は,実名を挙げる。関東軍参謀石原莞爾中佐と上司板垣征四郎大佐,彼らの企図を予め察知し得たはずなのに敢えて制止しようとしなかった関東軍司令官本庄繁中将,その要請に応じて,天皇の御裁可を得ないまま兵を満州領内へ進め,越境将軍と持て囃された朝鮮軍司令官林銑十郞大将,以上4名。「これは大元帥である天皇に対する命令違反に他なりません。林も石原も,本来なら陸軍刑法で処罰されて然るべきでした。これが何の処分もされないどころか,喝采と栄誉をもって受け入れられた。」
私は,元海軍大佐から聞いた談話を思い出した。
「陸軍の派閥というと,皇道派統制派の対立が有名だけどね,それとは別に,満州屋支那屋ソ聯屋という一種の閥があったんだよ。満州事変の論功行賞では,信賞必罰とは逆のことが行われて,満州屋が独りいい目を見るんです。現地の最高責任者本庄司令官は,事変の後侍従武官長,大将と栄進して,功一級の金鵄勲章を貰った上,男爵を授けられる。部下の参謀達も当然これに準じた処遇を受ける。それを横目で眺めていて,支那屋とソ聯屋が心穏やかでなくなるんですよ。あの連中があれで男爵金鵄勲章なら,我々も支那の本土で,或いはソ聯との国境で騒動起こしてみようじゃないかという気運が醸成されて来る。昭和12年の盧溝橋事件,翌年翌々年の張鼓峰事件,ノモンハン事件,あの種の武力衝突を支那屋ソ聯屋の功名心と直接結び付けては歴史の歪曲になりますがね,現地の陸軍中堅将校達が,こんな機会はうまく立ち回れたらという野望と,満州屋に対する強い羨望とを抱いていたのは事実でしょう。謀略で始まった戦の後始末が不適切で,罰すべき人物をきちんと罰しなかった結果は,国家のことなぞ二の次,各派の功名争いと責任回避とが主になって,支那事変の泥沼化から対米開戦,ミッドウエー以後の敗北に次ぐ敗北,都市の壊滅,ソ聯の裏切りによる満州の惨状に至るまで13,4年間,国民に災厄を与え続けるのです。」
「むろん海軍も例外ではありません。昭和初期の海軍大臣が既に悪例を残しています。」元大佐はそう言って,大角岑生提督の素姓閲歴を話してくれた。「昭和7年の五・一五事件には関係大ありで,時の海相大角大将は,犬養首相を射殺した過激派青年士官達の非行に重い責任を負うべき立場にありながら,処罰もされず,予備役編入も願い出ず,3年後陸軍の本庄将軍と並んで男爵を授けられる。」
「尾張の国の農家の倅(大角)や丹波の国の農家の長男(本庄)が華族に成り上がるなんて,当時大変なことで,分に過ぎたこの栄典は後々,軍の形態に大きな歪をもたらした」と,それも元海軍大佐の昭和史観であった。
「新訂勝海舟座談」を繰ってみたら,勝は,「なに,忠義の士というものがあって,国を潰すのだ。」「国というものは,決して人が取りはしない。内から潰して,西洋人に遣るのだ」と言っていた。
私は東京裁判を「復讐の儀式」と規定する半藤一利説に大賛成である。しかし,A級被告の中に,日本の国を内から潰してアメリカに渡してしまった「忠義の士」がかなり大勢混じっているのも亦否定し難い事実であろう。
阿川弘之 「新・東京裁判」再読 「天皇さんの涙」