くさまです。
横浜市、28日発表の陽性者は973(重症1、中等症6)累計58326。
前週比-172。感染経路不明666(68%)。
60~90代の女性3人が死亡。死者累計459。旭中央病院のクラスターは陽性者累計50名に。
横浜市長選は、大変なご支援をいただきながら、おこのぎ八郎先生は落選。出馬時の決意通り、2度と選挙には出ないと本人も明言されました。
林市長も、金曜日に最終登庁され、僕は自宅待機でお会いできなかったのですが、会派の控室にもご挨拶に来ていただいたようです。
6月中旬の小此木市長選挙出馬報道から2か月で、僕らは小此木八郎と、林市長を横浜の政界(公職の立場)から失いました。
これは本当に大きなことです。
年齢的に、時代的にも、横浜の将来の政治的なリーダーは小此木八郎だと思っていましたし、国会議員の皆さんはじめ、多くの自民党関係者もそう考えていたはずです。
菅先生の存在が大きすぎて、多くの市民の皆さんには見えなかったかもしれませんが、56歳で衆議院当選8回、2回の大臣経験という政治家は全国でも稀で、かつ、人間的に他党からも信頼が厚い政治家ですので、難しい局面こそ「八郎さんに任せれば大丈夫」という存在でした。
横浜市の未来の発展を担う方を失うことは、横浜市の大きな損失です。
申し訳なさと、不安でいっぱいです。
これもなかなか市民の皆さんには伝わらないと思いますが、6月からの小此木先生の動きは、まさに先生の背中で「お前ら、上の顔ばっかり見てないで、自分でもっと考えて、しっかり行動しろ」ということを、市長選出馬をもって、僕らに見せつけていた気がします。
今回の市長選で2つの大きな反省をしています。
2つとも、どうせ(上の)誰かが決めてくれるだろうという思い込みで生じました。
1つが、市長選挙の争点になったIRです。
僕ら自身のIRの研究や議論は2013年くらいから本格的に始まり、国会議員も含めて様々な検討や法整備が進んでいましたが、2019年12月に秋元副大臣が逮捕されてから、国会議員が引いた感じがありましたし、実際に引きました。
そこの時点では、国会議員の皆さんも、あとは自治体に任すといった空気感でしたし、実際、自治体も僕らも国会議員が逮捕されたからと言って、進めるものは進めていくという気概に燃えていました。
しかし、2020年の5月から、サンズなど、アメリカ勢が撤退したとき、同盟国以外の事業者しかいなくなる外交上のリスクを強く調整することはありませんでした。
水面下での調整は分かりませんが、少なくとも僕はIR担当の委員会でもなかったので、「きっと誰かがやってくれる」と思って議論を見ていましたが、具体に動きませんでした。
今、本当にそれを反省しています。
今回の小此木選挙の一連の流れで、国会議員や県会議員の皆さんは総じてスムーズにIR反対を掲げる小此木支持になりました。
一方で、IRを現場で推進してきたぼくら横浜市会議員は大議論の末に対応が割れることになりましたが、同じくIRを推進してきた国会議員の皆さんは全く割れませんでした。
国会議員の皆さんから異口同音に聞いたのが「(同盟国以外の国)にやらせるのか」「(同盟国以外の国の事業者)にやらせるわけにはいかない」という、経済安全保障への懸念でした。
この空気を前々から感じていたので、このリスクを横浜自民党の会議では発言をしましたが、当初はそんなことはどうでもいいという空気だったと思います。
そもそも日本の自治体の経済政策決定上、外交面のリスクは考えません。そんなことは考えなくてよかったのが日本の自治体の在り方だったと思います。
例えば、慰安婦像とか、そうした問題は別ですが、企業誘致などの経済政策で経済安全保障は考えないのが普通です。
しかしながら、世界の情勢はこの何年かで大きく変わりました。
今回の市長選挙で少しだけ話題になった中国の大手通信社の横浜進出の際は、議会でも僕らの先輩が問題提起しましたが、国際情勢も鑑みながら、IRの経済安全保障上のリスクをもっと僕が強く言わなければならなかったと、そして、国とも調整しなければならなかったと大いに反省しています。
これは、僭越でも、自民党の中で僕がやらなければならなかった。
心のなかで、本当に大丈夫かという懸念はありましたが、僕より保守的な政治家は多いので、「きっと誰かがやってくれる」と考えてしまっていました。
最初からこの道筋をつけておけば、地元経済界も、行政も、それを念頭に行動できたと思います。「だったらはやく言えよ」という言葉は、まさに的を得ていると思います。
この反省を踏まえ、これから、自治体経済安全保障について、専門家を交えながら議論して、確立していきます。
もう1つが、市長選挙までの候補者選びです。
これについては、「きっと誰かが決めてくれる」の最たる例でした。
僕は現在、自民党横浜市連の青年局長を務めていて、若手の代表として、本来なら積極的にもっとこれに関与すべきでした。
横浜市長は全国で最大の基礎自治体のトップであり、今までの市長のキャリアも、他の自治体とは大きく異なります。
多くの政令市では、候補者がいないなら俺が出るという決意で、青年局世代の皆さんが奮起して、残念ながら敗北し、議会も割れるという事例をこの何年多く見てきたので、僕の役割は、若手を割らず、市長選に対するトップの判断を円滑にまわしていくことだと認識していました。
これはこれで大切かもしれませんが、みんながみんなその思考になると、選定は大きく遅れていきます。
みんなが「きっと最終的には誰かが決めるんだ」と思ってしまっていたと思います。
そうした状況を小此木先生も感じて、なら自分が出るしかないという気持ちになったのだと思います。
小此木先生が手を挙げる少し前、これじゃあいけないとやっと若手で意見集約の場を持ちましたが、遅すぎました。
青年局長として大きな反省です。
二度とこうしたことを起こさないためにも、今回の過ちを心に刻みたいと思います。
もはや甘えられる存在はいません。
自分たちで新たな横浜をつくっていかなければなりません。
「強い覚悟で横浜市政へ」という小此木先生のフレーズは、そのまま僕らが引き継ぎます。
新市長を迎えた、第3回定例会がいよいよ始まります。
僕が頑張ります。