くさまです。

ベナン共和国訪問日程の中には、公式行事日程だけでなく、ゾマホン大使がアンジしてくれたコトヌー市周辺の視察も入っていました。




街中はかなり賑わっています(車はほぼ日本車、バイクは中国)


ガンビエの水上都市



訪問前の日本におけるゾマホン大使との事前調整の中で、
ウィダー海岸訪問というものがあったので、不勉強な私は、あくまで公式訪問なので、海岸・ビーチなどの観光はできないという話をしました。そうしたら「ここは私たち黒人の聖地なんだよ!観光じゃないんだよ!ここは絶対に行かなきゃダメ!」と怒られました。

奴隷海岸ということだったんですが、その時は本当に不勉強で、当日は時間がどうせ押すからオプション的に考えてればいいやというのが本音でした。ところが、実際に行ってみて、今回の訪問の中で、公式行事も含めて正直一番心を打たれたのが、このウィダー海岸の訪問でした。



皆さん、アフリカの奴隷制度の話は歴史で必ず勉強すると思いますが、どれだけの人たちがアフリカから連れ去られたか知っていますか?? その数、16世紀から19世紀までの約260年間で約1000万人とも2000万人とも言われています。そしてその何倍もの人が、奴隷船の船上で亡くなったと言われています。


このウィダー海岸は、アフリカ奴隷貿易の一大拠点で、1700年代から1860年までの約150年間で、約100万人のベナン人が奴隷として、ブラジル、カリブ諸国、アメリカ大陸に運ばれました

最初に要塞を築いたポルトガルの屋敷が復元されて、今はミュージアムになっています。



ベナンの悲劇は、当初欧米人が奴隷狩りを行ったのではなく、当時のベナン人が国内の戦の中で奴隷狩りを自分たちで行っていたことです。黒人による黒人の奴隷化です。

ウィダーの奴隷海岸までの「奴隷街道」には、当時を偲ぶ史跡が多くありました。

国内から集められた奴隷やっ来ると,競り開かれ、各国の商人たちは,手入れ奴隷焼き印押します。鎖でつながれ、何キロという距離を歩かされ、海岸連れ行かれ,その後小舟で商船に乗せられました。

「忘却木」という木があった場所記念建てられます。奴隷たちは海岸に着く前に強制的にその周り歩かさました。男性9回,女性7歩くことで、自分の名前、言語、家族、ふるさとなどの全てを忘れられる告げられたそうです。この精神状態は、説明されても想像することができません。

拘留中や移動の途中で病死したりする人たちも数えきれないほどいたそうです。海岸の近くには、亡くなった人たちを埋めた場所が聖地として残っていて、僕らも現地の皆さんと共に黙とうをささげました。





そして、ウィダーの海岸には今、「不帰の門」が設置されています。ここを通ると2度と戻って来れないという地です。海に向かってみると、門は,鎖つながれた二アフリカ人のレリーフが刻まれています。奴隷は,この国を忘れないようこの場所の砂人や、つながで首絞め、死を選んだ人もいたそうです。1995年に設置されたこの門は、世界遺産の暫定リストに載っています。




海岸近くには忘却の木の他に、違う木も残っています。写真のこの木は、3回回ると、奴隷として連れ去られた後、魂だけでもここに帰って来れると信じられていたようです。

何も抵抗できない人たちは、どのような気持ちでこの木を回ったのでしょうか。奴隷制度はあまりにも惨いです。それを当時は普通にやっていたのが、人の罪なのでしょう。

アフリカの悲劇は、1800年代後半にの酷い奴隷制度が終わったら、欧米の列強がそれぞれの国を植民地化したことです。

ベナンも1700年代に奴隷輸出が始まってから1894年にフランスに征服され、1960年に独立するまでの約250年。僕らで言うと忠臣蔵の江戸時代中期から昭和戦後の安保闘争までの250年間、ベナン人の文化、人権、尊厳、威信はどん底まで突き落とされ、今に至ります。この失われた250年間は言葉で表せないほど大きなもので、この歴史があってアフリカを途上国と僕は気安く呼べなくなりました。

僕らが言うアフリカ友好・都市間交流は、かなり綺麗ごとですが、この歴史を深く知らないでアフリカ友好を語るとはとんでもないことだと猛省しました。ゾマホン大使が「観光じゃない!」と怒るもの無理はありません。僕らがまず知らなければいけないことは、まさにこれなんです。広島や長崎、沖縄など僕らが外国の皆さんに対してかなりセンシティブになる、核心的な場所がベナンやアフリカで言うと、ウィダーだったと思います。しかもこれは、アフリカ人だけでなく、奴隷として世界に渡った黒人の皆さんの心の故郷、それ以上の存在だと思います。

アフリカ友好議連として、現地の皆さんとウィダーで祈れたことに、心から感謝しています。