くさまです。


今日は制定から67年目の憲法記念日になります。各地でも多くの行事が開催されました。


憲法記念日集会、改正に賛否熱く  「平和主義」が転換点

2014年5月3日共同通信


日本国憲法の施行から67年を迎えた3日、憲法記念日の集会が各地で開かれた。安倍首相は9条の解釈を変更して、集団的自衛権を行使できるようにすることを狙っており、その先には憲法改正を見据える。


戦争への反省から掲げた憲法の「平和主義」が転換点に立つ中で、各集会では改正の是非や自衛権の在り方をめぐり、改憲派と護憲派がそれぞれの主張をアピールした。


改憲派の「新しい憲法をつくる国民会議」は東京都内の大会で「時代に合わせて改正しないと国家が破綻する」と述べた。


護憲派の集会では、ジャーナリストらが「安倍政権は憲法を換骨奪胎して変えようとしている」と批判した。<<


憲法記念日の報道では、上記の共同記事のように、毎年のように「改憲派」と「護憲派」という、それぞれ代表される先鋭団体の行事が報道され、「いよいよ改正感」と「絶対死守感」が毎年のように書かれています。


32歳の僕でそう感じるのですから、僕より年配の方は毎年のようにこのような議論と報道を見ているのではないでしょうか。


そもそも憲法が制定された時から既に改憲議論があったわけで、僕が所属する自由民主党の結党理由(結党は1955年)も自主憲法の制定がその大きな柱ですから、既に半世紀以上、僕らは改憲論争を繰り返しているわけです。


そもそも国外では、この67年間戦争や紛争が絶えなかった中で、67年間も同じ体制下の元で同じ憲法が続いていることが平和の象徴とも言えますし、いわゆる「護憲派」の皆さんが、現行憲法の9条を平和の象徴として、文化として死守したい気持ちも、同じ人間として分からないこともないのですが、なにせ67年です。戦争の戦争経験者と同じく、憲法も立憲時代の人たちが年とともにいなくなろうとしています。


戦争には日本国民の殆どが巻き込まれましたので、僕らの近くに戦争経験者はまだいますし、語りべも多くいらっしゃいますし、なにせ多くの映像が残されています。それらの経験をもとに僕の心の中にある不戦の誓いは揺るぎません。


ただ、日本国憲法の立憲経験者というのは少なくとも僕のまわりには居ませんし、今までお会いしたこともありません。そもそも関われた日本人はどれくらいいたのか?という話で、憲法制定時の感動話や苦労話も本でしか読んだことがありませんし、それも本当かどうかわかりません。


憲法制定とともに策定された地方自治法の議会の部分は、大学院時代に国会図書館のマイクロフィルムまで調べて研究しましたが、制度設計に関与しているのはほぼアメリカ人で、地方議会の部分は、ハワード・ポーターという元オハイオ州の州議会議員が関与していました。


その事実は、大学院時代に僕が読んでいた地方自治の教科書にはほとんど出てきませんでした。地方議会というマニアックな世界の学者でも知らないことを、全国に何万といる地方議員の人たちが知るわけもありませんし、世間の人たちも知るわけもないでしょう。でも、地方議会は憲法93条で規定されている制度です。制度運用に際して、立法者の意志はほとんど知られないまま制度だけが67年間も動いていることが本当にいいのか、僕は疑問です。


先ほどの「不戦の誓い」もその1つです。僕らは教科書や大学の先生を通じて憲法の思想を知ることはできます。ただ、憲法をもって、僕らの中の「不戦の誓い」が永久になるか?正直よくわかりません。自衛隊は何なのかという議論は、警察予備隊の時からあったはずです。


何のための憲法か。立法の感動を多くの人が忘れた今にあって、憲法の意義を国民が共有できる環境が67年間の憲法議論で潰えてきたと思います。



要は、今日の憲法記念日に僕が言いたいのは、戦争経験者や立憲経験者がほぼいなくなる10年後を考えれば、もうそろそろ「護憲」「改憲」というステレオタイプを僕らが捨てるべきなんじゃないかということです。


僕らは主権者です。日本の明日は僕らが握っています。そして時代は生き物です。僕らの好む好まざるにかかわらず、世界は動いていきます。


「戦後レジームからの脱却」だけではなく、いつの時代でも僕ら国民が主権者として生きる為に、僕らは新しい憲法の立法を促していくべきです。


世界の中の日本をみながら、僕らが幸せであるために、二度と戦争をしないために、納得できるガバナンスをつくるために、日本はどんな憲法があったらいいのか、考えることは自然だと思います。