くさまです。


今年も学生が春休みの季節になり、3名のインターン生を受け入れています。


昨日は僕がずっと議会で直接傍聴できない会議だったので、その間、インターンの前田さん(大学1年生)に、今日まで横浜美術館で開催している下村観山展 に行ってもらいました。



観山は、三溪園をつくった原三溪氏に呼ばれ、本牧に住んでいたこともあり、横浜にも縁がある人なのですが、何より学生だと興味がないかぎりこういった日本画家の展覧会に行かないという先入観が僕にはあり、「西洋美術には興味があるけど、日本画は・・・」という前田さんに強引に行ってきてもらいました。


大学院のとき、ニュース23のキャスターだった故・筑紫哲也教授に「僕にはきっかけをあげることしかできないから、あとは自分たちで調べればいい」と言われ、アメフト一辺倒だった僕は、ハリウッド以外の映画や歌舞伎や芝居に興味を持つことになりました。


「きっかけ」は、何気に結構大事だと思います。


そして観山展を観てきた前田さんに「ちょっと書いてきて」と言って書いてもらった感想が以下です↓観山展は今日までですので、まだの方は是非。


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横浜市の横浜美術館の下村観山展を訪れた。


彼の美術人生を大きく四つに分けて作品を展示した今回の美術展。狩野派の技巧をほぼマスターし才能の片鱗を見せた幼少期、東京美術学校へ入学し技術を熟達させていった青年期、政府から留学を命じられ渡英した壮年期、その後岡倉天心と共に建てた日本美術院の再興に奔走した四つの時期に分類される。


彼の人生を通して、画風が年を重ねるごとに変化していくのは興味深かった。


例えば留学を経あとの絵画では中国人の鼻を鉤鼻にして描いていたり、モナ・リザ風に仏陀を描いてみたり、影響や感銘を受けたことがここまで作品として如実に示されているのは面白かった。また鵜鴎図という鵜が海岸沿いの崖にいる屏風絵の水しぶきの力強さに驚いた。


最終的に観山は水墨画に傾倒し、晩年は水墨画を描くようになった。

西欧の画法を学び、西欧化されても、日本的な画法に収束したのだと私は考えた。


この日本的な画法というのも幼少期のそれとは単に技術が向上しただけでなく西欧のよいところを取り入れた新しい日本の水墨画になったのではないかと思う。


今回の展示を見ての美術的な感想は造詣のない私には難しいが、この観山の美術の変遷というのはこれからの日本の将来のある種の道しるべになるのではないかと感じた。


今の日本は欧米のやり方を真似している段階だと思う。それでは立ち行かなくなる問題に多々遭遇し、これからの日本のあり方が問われる時代になってきた。


そういう時代、これからを生きるためには観山のようにただ原点に立ち返るだけでなく西欧の良い点を取り入れながら新しい自国のあり方を確立せねばならないのではないだろうか。そういう風に感じた下村観山展であった。


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