夕刻、とある作業をしようと図書館に行きました。
座席を確保して、ほっと一息ついたら、
作業はまぁ今日じゃなくてもいいか、という気分になり、
何を読むでもなく、書くでもなく、
人生はいつ終わるのか、
終わるまでに恋をするのか、などと
考えたり、考えなかったり。
そんなことをしていると、隣の席から何やら音がしてきました。
ボキボキというかゴキゴキというか。
おそらく指の関節を鳴らす音なのですが、
それにしてはおぞましい音です。
人間の骨がボキッと折れ、体内で血肉ともどもはじけ飛ぶ様が脳裏に浮かびます。
一体どんな関節の持ち主なのか?
音の主を確認しようと隣を見ましたところ……
ここからは、気持ち悪いおじさんが、
舌なめずりしながらブログを打つ姿を
想像して読んでいただくと楽しいと思うのですが……
なんとかわいげな女子高生でした。
「オッサンじろじろ見てんじゃねぇよ」
なんて言われたらもう嬉しくて、いやショックで眠れなくなりそうなので、
本当にちらっと見ただけなのですが、
清潔で瑞々しい少女(ほぼオッサンの妄想)です。
その白魚のような指(完全にオッサンの妄想)が、
あのボキボキ音を発したとは信じたくないような少女です。
これが意外性というやつです。
この映画「受験のシンデレラ」に意外性はありません。
いわゆる“ベタ”です。
東大生の親の半分強が年収950万以上といわれる昨今、
貧乏な家のヒロインが、
ひょんなことからカリスマ講師の個人指導を受けることとなり、
東大受験に挑むというストーリー。
本当にベタな展開でヒネリはありません。
人間ドラマだって複雑なことは一切やってません。
それでも間違いなく言えることがあります。
この映画は素晴らしい!
そもそもなぜ人はベタを嫌うのか?
意外性に欠け、飽きるからですね。
ではなぜこの映画、意外性がないのに飽きないのか?
作家の村上春樹さんがこんなことを書いておられました。
大事なのはリズム。
リズムの良い文章を書かないと人は読んでくれない。
(言い回し等正確ではありませんが。)
映画も元はシナリオ、つまり文章ですから、
この理屈が当てはまるのではないでしょうか。
だとすれば、
この映画はリズムがいいのかもしれません。
リズムに合わせて心が躍る。
だから飽きないんですね。
ところで“リズム”って何なんでしょう?
分かればもうちょっとましなブログが書けるのでしょうか……
さて、
もうひとつ飽きない理由があります。
“ときめきのようなもの”です。
ボキボキ少女の話に戻ります。
隣の席からそこはかとなく漂ってくるレモンのような香りに、
ボク(敢えてボクと言いたい)は、ある種の緊張を覚えていました。
その緊張が“ロリコン”などといういやらしい言葉で言い表されるものでないことだけは断言しておきますが、
ではそこに“男女”という概念が全く存在しないかというと、
それはなんともビミョーなのです。
だって隣が男子高校生なら、このような緊張はしないのですから。
こんなことを書くと、
「それでもボクはやってない」よろしく痴漢か何かの冤罪で捕まったときに、
検察官が、このブログのコピーを高らかに掲げて、
「被告人は日頃から女子高生に性的な関心を抱いていたのであります!」
とか言って、
「どうだ、ぐうの音も出まい」
みたいなキメ顔をするところを想像してしまい、
恐ろしくて眠れなくなりそうなので、この辺にしておきますが、
要するにそこには、
性的な関心ではない“男の意識”みたいなものがあったのです。
これを“ときめき”と呼ぶことにはかなり抵抗がありますので、
“ときめきのようなもの”としておきます。
見ず知らず、しかも隣に居合わせただけでこの体たらくですから、
ヒロインに受験勉強を教えたカリスマ講師には、
もっと確実に“のようなもの”が存在した、と私は睨んでおります。
そしてこの“のようなもの”は、映画の中になんとなく漂っています。
あからさまなドラマはありません。
あくまでビミョーに漂います。
これが上品でいいんですね。
ちっとも気持ち悪くなんかありません。
ちなみに映画「の・ようなもの」には続編ができるらしいですよ。
関係ありませんね。
「受験のシンデレラ」は、
自然に涙がこぼれ、
後に清々しさが残る快作でした。
☆2.5です。
(参考文献)
「小澤征爾さんと、音楽について話をする」
小澤征爾×村上春樹 新潮社
