鈍感度、っていい風に言われていてます。

 

そしてセンシティブな私は「鈍感である」のも大事だと考えていました。

鈍感でいれば、事あるごとに「傷つかなくていい」と思っていたから。

 

自分なりのやさしさを表現しただけ、他意も何もなくただ純粋に、困ってそうな人を

助けたつもりだったのに、気持ち悪がられた。

 

そのことの前にもいろいろとあったと思うし、覚えていることもある。

でもずっとそれを思い出すたび、胸の奥がちくっとどころか、

ぐさって刺されることがあるから、自分で自分が感じることがないように

暗示を、魔法をかけてしまったいるのです。

 

それは習慣化されていて、おそらく小さいころからの習慣なのだと思います。

 

小さいころに大人が冗談で放った「妹にいいところ全部持っていかれたね。」と

いう言葉、素直に信じ、あまり目立たないように、でも出来が悪いから

一生懸命、人一倍働くこと、が脅迫観念になっていて、体を壊すまで

働き続けるという式ができあがりました。

 

もしかしたらもっと小さい時から始まっているのかもしれません。

なぜなら私は小学1年生ぐらいまで記憶が曖昧というか、ほとんどありません。

 

そして今高度な表現者となっているかもしれません。

 

怒りはあっても人には見せず、悲しくても涙が出ない。

常にゆったり笑顔。高度な表現者になっていました。

 

「泣かない女」といわれるほどまでになったのは、悲しくてもその悲しみを

ラップに包んで、感じさせられなかったからだと思ったら、

 

そうなんだ、という納得とごめんね、という気持ちがごちゃごちゃで

気持ちの整理が追いつきませんでした。

 

吉岡純子ちゃんがおっしゃっている、〚「自分が素直でいる。人の顔色を

見て発言行動しない」自分でも周りから愛される』っていう世界線を

作ってしまえばいいんだ、ってこと、勇気が出ました。

 

軽やかにそして自分らしく生きて幸せである、っていう世界線を設定します。