りんは、空に向かって、手を伸ばした。
高く、青い空は、吸い込まれそうなほど、澄んでいる。
この先に、愛する人がいる。
そう思うことが、今のりんの救いだった。
冬の空は、味気ないほど冷たくて、何も映してはくれない。
幻でもいいから、あの人に会いたかった。
そんなりんの願いは叶えられるわけなく、黒いカラスが飛んでいくだけ。
バサバサバサッ。
虚しい羽音が響くだけの空に、舌打ちする。
りんは空を見上げるのを、いつしか止めてしまった。
毎日、うんざりするほどやるべきことが、襲ってくる。
生きていくのは、案外容易かった。
やるべきことをやっているうちに、時間だけが過ぎていく。
心を殺し、悲しみを忘れ、目の前のことに没頭することで、
りんは生きていけた。
それでも、ふと襲ってくる、どうしようもない寂しさ。
心にぽっかり空いた穴をどうしても、埋められない。
あの人を失って、もう一年が過ぎようとしていた。
りんをまるごと愛してくれた。
何をも犠牲にして、守ってくれた。
涙を見せたのは、ただ一度だけ。
りんが別れを決めた、あのときだけ。
ああ、どうして。
どうして、私は・・・・。
いつもこうだ。
失ってから、気づく。
大事な人は、いつもそばにいるのに、当たり前になって、忘れてしまう。
その大切さは、そばにいなくなった後でしか、わからない。
どれだけ、愛してくれただろう。
どれだけ、大事にしてくれただろう。
私は、あの人の愛にこたえられただろうか。
うまく言えない。
受け取った分以上のものは返せなかった。
それだけが、わかる。
子供のように、おおらかに歌をうたう人だった。
あの人の運転する車の助手席で、りんはいつしか演歌に詳しくなった。
一緒に、いろんなところに行った。
どこに行くにも、一緒だった。
もう、何十年も、りんとあの人は「一緒」だった。
それは、あの人が亡くなるまで、変わらなかった。
最後まで、りんはあの人を愛し続けた。
あの人は、りんの父だった。
どしゃ降りの雨が降る。
別に濡れても構わない。
どのみち、心は涙でぐっしょりだ。
りんは傘もささずに、歩き続ける。
雨に打たれるのは、案外、気持ちのいいものだった。
空は黒く染まり、りんの心みたいだ。
青い空より、むしろ慰められた。その黒さに。
月も星もいらない。
光など、今のりんには必要なかった。
「ピカッ!」
「ばりばりばりばり!」
空を引き裂くように、雷が走る。
あまりの音に、りんは空を見上げた。
そこに、あの人の顔が見えた。
「え?」
りんが目をこすると、あの人の怒った顔が現れる。
「なにやってんだ!りん!」
あの人の怒った声が聞こえる。
「うそ!お父さん?」
りんが半信半疑で言うと、ますます怒った。
「ばかやろう!風邪ひくぞ!」
「早く、家に帰れ!」
声は響き続ける。
雷の音と一緒に、あの人の怒声が降ってきた。
りんは、久しぶりに、力が戻ってきたのを感じる。
全身に力がみなぎってくる。
この感覚は!!
りんは走り出した。
泥水をものともせずに、バシャバシャと駆けていく。
何も怖くなかった。
りんは一人じゃない。
父が空から、降ってくる。
すぐそばに、そのぬくもりを思い出し、びしょ濡れなのに、あたたかかった。
りんは幸せを感じていた。
あまりに久しぶりの感情に、涙があふれた。
雷鳴は遠くなり、耳から父の声が消えていく。
気づけば、雨も止んでいた。
りんは、それでも走り続けた。
家に向かって、まっすぐに。
そこには、りんの帰りを待ちわびている人が「いる」。
そのことにさえ、気づけなかった自分が情けなくて、りんはまた泣いた。
悲しみの涙ではない。
幸せの涙だ。
空には虹がかかっていた。
大きくて、優しいあの人の顔が、これ以上ないくらい、笑っていた。
瞬きもせず、りんはその笑顔を焼き付けた。
了
*この小説は、フィクションです。