宗教と2つの偏見。
宗教と偏見の関係は僕がずっと書いてみたかったテーマだ。
多くの宗教に対する偏見の眼差しが世の中に存在する。
それに対する問題意識がずっと心の内にあったからだ。
いままでは、宗教に対する言われのない偏見に対して意見を述べようと思っていた。
が、昨日読んだインドの少女バンドが解散させられたというニュースを見て、少し違う角度に問題意識を抱いた。
それは「もう1つの偏見」だ。
もう1つの偏見とは、すなわち宗教を信仰する人が持つ偏見のことだ。
今回はそちら側の問題についてまとめたいと思う。
まず、宗教とはなんなのだろうか。
偏見の前に宗教の意味をまとめる。
宗教とはもともと、人々の心の弱さを補うために存在している。
あくまで個人の心を対象としているものだ。
例えば、イスラム教において豚肉は汚い物と扱われるなら、その宗教を信仰する物だけが豚肉を食べなければよいのであり、他者にその決まりを強制する理由は、少なくとも宗教の本義にはない。
女性は人前で顔を出してはいけないというのも、イスラム教の教えを守る女性だけが守ればいいのであり、本来他者に戒律を守らせる必要はないはずだ。
僕が問いたいのは、「宗教上の理由」といって、他者の行動を制約しようとする、人たちの意識だ。
僕は、他者の行動を制約しようとするのは、「宗教上の理由」ではなく、「個人の偏見」による物だと考える。
三大宗教と呼ばれるイスラム教、キリスト教、仏教を例にとって見てみると、そのいずれにも共通する教えは「現世の自分の振る舞い次第で、来世が幸せになる」とされている。
つまり、あくまで己の振る舞いに制約があるだけで、決して宗教そのものには他人を制約する内容など含んでいないのだ。
これを踏まえて僕が言いたいのは、他者に対して自分の宗教の道理を押し付けるのは、押し付けた当人の持つ他者への偏見による行為ではないかという事だ。
俺にとって豚肉は穢れた物なのだから、当然他の人も食べるべきではない。
俺にとって女性は顔を隠す物なのだから、当然他の人も顔を隠さなければいけない。
他者に戒律を押し付ける人の考えの本質を掘り出せば、上のような主張になる。
自分の価値観が正しいと決めつけ、他を間違えとするのは、宗教の問題ではなく、本人の自己肯定感(=偏見)の問題だろう。
構造は黒人差別やシーシェパードの問題と何も変わらない。
悪いのは宗教そのものではなく、狭い視点しか持たない、個人ではないだろうか。
一般的に宗教に関する偏見問題というと、一般が宗教に対して持つネガティブなイメージを想定するが、実は宗教を信仰する側にも、大きな偏見が存在している。
インドの少女バンドの記事は、後者の偏見の存在を伝えている記事であるとおもった。