46.知(ち) | (旧)薄口コラム

(旧)薄口コラム

※はてなブログに本格移転しています。
http://column-usukuti.hatenadiary.jp/
進撃の巨人の一話で、エレンが泣いたのは何故なのか?
SONYが復活するためにはどういう戦略が必要か?
身近な時事ネタやビジネスなど、さまざまな事に斜めに構えて考察します!

僕が大学の四年間で得られた最も大きな物は何かと聞かれたら、多分「余白」と答えるでしょう。

それは大学の授業でもサークルの活動でも、バイトの経験でも決して得られなかったものです。

具体的にはキャリアにいっさい関係しないような、感性や雑学といったもの。

僕は、授業で学んだ専門知識よりも、バイトで死ぬ程鍛えられた電話スキルでも計画スキルでも、サークルで培ったリーダーシップよりも、「それ以外」の部分をたくさん学べた事が、
最も貴重な経験だと考えています。



昔はそれこそ、大学に入ったのだからキャリアを見据えて資格を取ったり、どんどん課外活動にチャレンジする事が正しいとおもっていました。
いや、そういう「頑張る自分がカッコいい」と思ってたという方が当時の僕の心情を的確に射抜いている気がします。

SNSでは休日、寝る間もないという忙しい人アピール。
学校では薄っぺらな新書から引っ張ってきた心理学や経営学のスキルを我が物顔で力説。
とにかく「できる大学生」を演じたかったのだと思います。


そんな事に幾ばくの意味もないという事に気づいたのは、2つのきっかけからでした。

1つは塾で社員さんや保護者を始め、大人の前で何かを提案する機会が圧倒的に増えた事。
もう1つ肩書き抜きで人と触れ合う機会が増えた事。


保護者会や入試説明会などで話す時間を貰ったとき、小手先のスキルが、いかに不毛な物か気づかされました。
結局どれだけスキルや理論を知っていても、相手に取っては「で?」って話なんですよね。

説明を聞く相手は、僕の知ってる理論、実践しているスキルを聞きたいんじゃ無くて、僕のビジョンや見通しを求めてる。


説明会の中で学んだ事は、知識はあくまで知識であって、そこに付加価値は何も生まれないということでした。


もう1つの気づきは、一人で日本を回っていたときのもの。


一人で旅行をする中で、本当に様々な人との出会いがありました。

そこでの僕は塾の先生の肩書きも、留学生ボランティアの肩書きも何もないただの学生です。


そんな一個人として知らない人との人間関係を築くときに一番大切だったのは、イレギュラーな体験でした。
殆どの人と話す場合、僕が普段様々な役職を背負った状態で使っていたスキルはまるで役に立ちませんでした。

その理由は一言「つまらない」から。
不思議な事に、大学にいると「自分がいかに頑張ってるか、自分がいかに凄いのか。」という話は、大きな話のネタになってしまいます。

「学生なのに社会人の様な事ができる=凄い」となるからでしょう。
しかし、一度学生の肩書きをはずしたらどうでしょう。

学生同士の会話のなかで「凄い」と囃し立てられる事柄の全ては、社会人の当たり前以下になります。

そんなことを、一人旅の中で学びました。

二つの心境の変化の後、僕がたどり着いたのが「余白」という概念です。

遊びも学びも含めて、様々な経験を積むと、それらは新たなアイデアを生み出す大きな肥やしになるということがわかりました。

結局どんなに新しいものを生み出すと行っても、自分のアタマでかんがえる以上、自分の経験にない物など生まれるはずがありません。

だから、ジャンルを問わず興味のある事はひたすらに触れる様にしました。
実学も雑学問わず、多くの物に身を触れる中で、少しずつ発想する力が身についてきました。

いまはそれが「付加価値を生み出す」事に繋がるのだろうとおもっています。
それから、色々な経験をするうちに、自分の話の引き出しが増えてきました。

それにより、以前の僕なら相手にしてもらえなかったであろう人との関わりも少しずつ増えてきました。

「学生」という肩書きを前提にしなくても話せる言葉を手に入れたからです。



どうしても大学という狭い枠に収まっていると、小さな「凄さ」に目を奪われてしまいます。

「とにかく何か頑張りたい」と上を向いて走り抜ける熱量も大切なのでしょうが、その前に一旦自分の足元に目を向けて、地道な勉強や人目に見えない努力を繰り返す事が大切なんじゃないか。

その勉強と努力が、後に大きな余白となって自らに返ってくる。

もっと早くに気づいておけばと、後悔ばかりです。