カフェで、カフェインレスコーヒーを | クルミドコーヒーのブログ

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西国分寺駅前
くるみをテーマにした
こどもたちのためのカフェ

みなさん、こんにちは。
スタッフの大畑です。
師走がとうとうやってきましたね。

【2018.5追記 あ、デカフェ、ご提供できるようになりました!うちのスタッフが焙煎してます!】
冒頭からすみませんが....、

タイトルにでかでかとカフェインレスコーヒーと書いてしまったものの、

現在メニューにはございません..。

カフェインレスの、ハーブティーでしたらご用意がございますし、コーヒーも水出しで美味しいと思いますので、ぜひお立ち寄りくださいませ。

 

さて、

つい先日、店主・影山のtwitterにこんなつぶやきがありました。
 

__

ちなみに昨日の議題は、「オレたち、なんでこんなことやってんだっけ?」でした笑

カフェなんてなくてもいい、なくても誰も困らない、がスタート地点だと思うんです。

だからあることを当然だと思った瞬間から、放っておけば、お店の存在意義はどんどん薄れていくものです

<twitter>


定休日のミーティングで
ふと飛び出した問い。

毎日考えるものではないですが、
毎日忘れていたらいけないような
大事なことですね。

それについてスタッフが各々に
ブログへ投稿してみることにしました。

よろしければ
お付き合いいただけましたらと。



なぜこんなことやってんだろうか。
なぜカフェなんてやってんだろか。

うーん、

そう訊かれるっていうと
わかんなくなりますから、
切り口を探しましょう。



お客様だとか、従業員だとか、
どちらかを『第一』だという
会社さんなんかを
見聞きすることありますね。

ようは
”関わってくれる人”
ってことですかね。

関わってくれる人が
楽しく幸せになったらそれが一番よし。

うーん、
そうなんだけどね。
なんだか煙に巻かれてしまったようですね。



私、落語をよく聴きます。

立川志の彦さん、
という立川志の輔さん
(あの、ガッテンの人!)
のお弟子さんのファンです。
有名どころで言いますと、
古今亭志ん朝さんなんか、
すごい好きですね。

かの立川談志さんが
言ったようです。

「落語とは、人間の業の肯定である」

はあー。
そうですね、わかります。

落語にでてくるのは
だいたいろくでもない人ばかりなんですね。
盗んだり、騙したり、いやもっと日常的な、
やめられなかったり、欲深かったり、、
それらをユーモアで笑いに変えている。
落語に出てくる人間は何ひとつ変わってないんです。
でも、その人間に相対する
私たち、聞き手は、悲しい顔じゃなくて笑顔になって帰ってくる。

そういった
度量の深さ
間口の広さ。

それはカフェに通じるところが
あると思いますね。

カフェでは
喧嘩してようが、うとうと寝てようが
まあある程度は問題ない。

問題に、しがち・なりがちなのは
現代のカフェではたしかにあると思うし、
もっと寛容な社会を
目指したい。



一方、
まわりのお客さんのこと、
お店や社会の行く末を思うと、
正直、
お客さんの動向を
気にしてしまう自分もいる。

それはつまり、
2人で来ているのに
スマホのゲームをやっているお客さんより、
おもしろいお話をしてるお客さんのほうが
私は好きだということ。

でも、
そういうのがカフェなんだろうか。

もっと、
わちゃわちゃ
動物園のようであってよくないか。
20世紀のパリのカフェは、
そのようであったはずだ。

寝巻で現れるお客さんも、
店内でナンパを始めるお客さんも、
声がうるさい団体客も、
全人類の善いところも悪いところも
受け入れていくのが
カフェなんじゃないか。

そう思うときもあります。

それだけじゃないとも思います。


私はもとから
変化、成長、というのが好きなんです。

だから私は
訪れた人になにか変化をつくりだせたらいいな、
と思ってカフェをやってるのかなあ、と。

壁にぶら下がった飾りのひとつに、

出てきたケーキにつかわれてたレーズンに、

私たちスタッフのへんな挨拶に、

そうと気づくか気づかずか、ハッとしたりグッときたりが

あったらいいなと思いますね。

その一番面白いのがじつは、
「受け止めてもらった」
という瞬間だったなんて話もあったりして。

 

うーん、

頭がごちゃごちゃしてきます。

 

 

つづきます。