秘密保護法によって日本は多くのメディアが自主規制してしまい独立性を欠いている。

この上なく日本は自由な国だと思っている人が多い。だが、報道の自由度を世界各国と比べた『報道の自由度ランキング』によれば、日本は世界180国の中で72位でしかないのである。前年は61位だったが2016年に11も急落してしまったのだ。

 

これは、国際NGO国境なき記者団が毎年調査してランキングしているもので、『日本は多くのメディア報道機関)が自主規制してしまい独立性を欠いている』と問題を指摘した。特定秘密保護法の施行後に報道の自由が萎縮したためだとされている。

 

報道の自由がなければ、知る権利はそれだけ犯されている。

報道の自由がなければ、国民の知る権利はそれだけ犯されていることになる。報道機関が真実の報道を行なわず、権力の横暴を監視して、それを抑制する力を失えば、やがて国民は何が真実なのか分からなくなり、権力による個人の自由を束縛するようになる。

 

そうなった時に、あわてて国民が声をあげても、権力がこれを抑えつけるのは容易になる。それをやっても、その弾圧を報道して社会に抵抗を促す機関(メディア)がないのだから、権力はやりたい放題になって行くのである。

 

●『表現の自由』とは『報道の自由』と同義語か?

報道は、司法、立法、行政の三権分立に対して、第四の権力とも言える国民固有の独立した権利である。それほど重要な権利なのだが、日本国憲法はその報道の自由を定めた条文がどこにもない。

 

かすかに、憲法第21条に『集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する』と定められているだけである。『表現の自由』とは『報道の自由』と同義語だ、とされているが、これによって、日本国民は知る権利を保障されていることになるのだろう。

 

日本の報道機関が権力の前で萎縮してしまっている証拠。

しかし、この知る権利が次第に失われつつあることが、『報道の自由度ランキング』によって示されているのである。2010年に日本は11位だったことを思えば、急激に下落していることを日本のメディアは、もっと注目して国民に知らせる必要があるのではないか。

 

そのような努力をしないこと自体が、日本の報道機関が権力の前で萎縮してしまっている証拠である。そして、日本のメディアは、政治的なニュースからなるべく目そらして、芸能、スポーツ、犯罪、その他の娯楽へと紙面や時間を割くようにしている。

 

目立つのはテレビによる『知らせない』ための番組編成。

先ほど、知る権利といったが、記者が取材せず報道が行なわれない問題は、知る権利を根本からひっくり返しているのであって、『知らせない』という報道の自由として国民の権利を阻害しているのである。

 

特に目立つのは、テレビによる『知らせない』ための番組編成である。最近では、NHKまで重要な政治ニュースを報道しないで交通事故や殺人事件ばかりにスポットを当てている。もし、これらのニュースを本格的にやろうとすれば、專門のチャンネルが必要になるほど日常茶飯事に発生する事件なのである。

 

●報道の自由も知る権利もどこかへ忘れてきてしまった日本。

だから、特別のニュースバリュウ(報道価値)がない限り、NHKが報道する必要はない。民放でも同様で、視聴率ばかりを追いかけていて、今さら大騒ぎになっている都庁や富山市の政治疑惑は放置されてきたのである。

 

日本は、報道の自由も知る権利もどこかへ忘れてきてしまっているのである。メディアは、政治のスキャンダラスな露見に大騒ぎしている。しかし、元はと言えば、取材記者を始めとする報道機関が報道の自由をもてあまし、国民の知る権利を握り潰してきたために発生した事件なのである。