ロベルト・ロッセリーニ監督が1946年に撮った『戦火のかなた (Paisa)』は、ドイツの傀儡であるサロ政権下の1943年のイタリアを描いたつ6つのエピソードで構成される作品になります。 

本作品は、キネマ旬報年間ベスト・テン投票の外国映画No.1に輝いております。

各エピソードの概要は以下になります :

 

【エピソード1】 シチリア島に上陸した米軍は、村の娘に案内役を依頼します。 

ドイツ兵不在の城塞に娘と残った米兵は、身振り手振りで故郷の話をしますが、 ライターの火で家族写真を見せようとした時に、ドイツ兵の銃弾に倒れ、狙撃してきたドイツ兵に娘も崖で殺害されてしまいます。

城塞に戻った米兵達は、傍らにあった銃から娘の裏切りによるものと思い込みます。

【エピソード2】 ナポリ駐留のハーモニカを愛するアフリカ系アメリカ人のミリタリー・ポリスは、酔いに任せて土地の少年と街を彷徨いますが、酔い潰れて寝てしまった隙に軍靴を少年に盗まれます。

少年を見つけたミリタリー・ポリスは、 靴を取り戻そうと家に案内させますが、戦災孤児として貧困生活を送る姿を見たことで、少年が家から持ってきた靴を捨ててその場を立ち去ります。 

【エピソード3】酩酊した米兵は、紅灯街で一人の女性に声を掛けられますが、連れて行かれた部屋で彼は寝ようとはせずに、半年前に歓待してもらった ローマの良家とその娘の想い出と共に彼等との再会の夢を語り出します。

兵士の話を聞くうちにそれが自分であると気付いた女性は、自分の住所を書いた紙を宿屋に預けて、明日ここで米兵を持ち続けている女性がいることを伝えてくれる様に頼み、眠った米兵を部屋に残して家に帰ります。 

後日、住所が書かれた紙を見つけた米兵は、その紙に書かれた内容を同僚に訊かれた時に、紅灯街の女性の住所であると言って道に捨ててし まいます。 

【エピソード5】 カトリックの男子修道院に3人の米軍従軍聖職者が一夜の宿を請います。

飲待された3人は持参した缶詰等の食料を差出しますが、3人のうち2人がプロテスタント牧師とユダヤ教祭司であることが知れると、道士達は愉しみにしていた缶詰の食事を止め、2人の異教徒の迷える魂の救済を祈る為に断食することを告げ、大勢が集う食堂で3人だけが食事をすることになります。

【エピソード4】と【エピソード6】は、恋人の抵抗活動家を前線で探す看護士が同志から死亡の事実を告げられる話と、解放間近にドイツ軍に捕らえられたイタリアの抵抗活動家の痛ましい処刑の悲劇が描かれます。

 

この映画を観ていて感じることは、この作品が製作者と演技者の実際の戦争体験や、身近に起きたであろうエピソードに基づいて割られたことを感じることです。 

独立した6つのエピソードを観ることによって個々の観客が心の内に描く戦争のイメージこそが、ロベルト・ロッセリーニ監督がこの映画に託したメッセージの様に思われます。

この映画を観ると、平時には平穏に過ごせていたであろう市井の人々が、兵士や前線の市民となることで、生死の際に置かれたことにより顕われる個々の人間の核をリアルに描こうとした作品ではないかと自分は考えます。 

先般、ヴィットリオ・デ・シーカ監督のネオレアリズモ作品『ミラノの奇蹟』(1950)を観て思ったことは、ノン・プロフェッショナル俳優を起用することにより、'或る状況下'に於ける市井の人々の姿をリアルに描くネオ・リアリズモ作品に、撮影当時の背景も相俟って濃密なドキュメンタリー色を感じることです。

この映画を観た人夫々に印象に残るエピソードが存在する作品だと思いますが、個人的には【エピソード1】 と【エピソード3】が脳裏から離れません。

ルイス・マイルストン監督の『西部戦線異状なし』(1930)を象徴する蝶のラストを連想させる 、兵士が普通の人間の姿を覗かせた隙に銃弾が襲う【エピソード1】と、環境を容赦無く変えてしまう戦争に人格が翻弄される姿を描いた【エピソード3】の過酷さは、観る度に胸が締め付けられます。

若きフェデリコ・フェリーニ監督が脚本に参画し、前年製作の『無防備都市』(1945)と共にイングリッド・バーグマンの魂を燃え上がらせた作品としても知られる、イタリアのネオレアリズモ作品を代表する作品として好きな映画です。

 

§『戦火のかなた (Paisa)』