ジャン・コクトーがシナリオを書き、自身の戯曲を1947年に監督して映像化した『双頭の鷲(L'Aigle à deux têtes )』は、ヨーロッパの架空の王国の王宮を舞台としておりますが、題名が双頭の鷲であることから、19世紀末のオーストリア‐ハンガリー帝国と皇后エリザベートを連想させる作品となっております。

 

国王フレデリックが結婚式に向かう途中に暗殺されてから10年が経過した或る日、寡婦としてベールで顔を覆った王妃エドウィジュ・フィエールはクランツ城に到着します。

国民に敬愛されている覆面の王妃エドウィジュ・フィエールですが、女王の継母であるイヴォンヌ・ド・ブレイ(役名:大公妃)には疎まれています。

王妃主催の舞踏会の最中、部屋に閉じこもったエドウィジュ・フィエールは、会場で演奏される亡夫との想いでの曲を聴きながら夫が居るかの様に会話を始めます。

その時、王妃の暗殺を企むアナーキストの若手詩人ジャン・マレー(役名:スタニスラス)が、警察から逃走中の負傷した軀で彼女の部屋に入って来ます。

エドウィジュ・フィエールは亡き王に生き写しのジャン・マレーを、愛する夫の許へ導いてくれる死の天使として受け入れ、自らの死を具現化してくれる存在と見做します。

そして、ジャン・マレーが王妃批判の詩を発表したペンネームに因んで彼のことをアズラエル(「死の天使」)と呼び、読書役に任命することで彼を保護します。

2人の間に朧げな愛情が芽​​生え始め、警視総監ジャック・ヴァレンヌ(役名:フェーン伯爵)と王妃の侍女シルヴィア・モンフォール(役名:侍女エディット)等の宮廷政治家の陰謀に対峙します。

王妃は侍従長ジャン・ドゥビュクール(役名:長フェリックス・ヴィレンシュタイン公爵)も大公妃イヴォンヌ・ド・ブレイのスパイであること、ジャン・マレーは警視総監ジャック・ヴァレンヌの意のままに操られているに過ぎないこと等の実状を話します。

エドウィジュ・フィエールが召使アブダラー(役名:トニ)を連れて朝の遠乗りに出掛けている間に、ジャック・ヴァレンヌはジャン・マレーに使命を果せば自由を与えようという策謀を仕掛けます、

エドウィジュ・フィエールが遠乗りから帰ると、毒薬の入った指輪が無くなっていることに気付きます。

毒を仰いだジャン・マレーがエドウィジュ・フィエールに愛の言葉を求めると、死を切望する彼女はジャン・マレーに冷酷な言葉を浴びせかけます。

 

ミヒャエル・クンツェ脚本・作詞、ジルヴェスター・リーヴァイ作曲のミュージカル「エリザベート」を観劇した目でこの映画を観ると、死を渇望する皇妃エリザベートとエドウィジュ・フィエールが演じる王妃が重なります。

そして、スタニスラスを演じるジャン・マレーは、愛と死の化身である死神トートとエリザベートに死をもたらすアナーキストのルキーニ両方の性質を有した存在の様に思えます。

その為、死を渇望するエドウィジュ・フィエールと死を誘う存在であるジャン・マレーが愛し合うことで、愛と死が結びつくことにより、自分はこの映画の指輪の毒は、死の薬である毒薬が媚薬へと変容したリヒャルト・ワグナーの楽劇「トリスタンとイゾルデ」を連想してしまいます。

映画の終盤にジャン・マレーがエドウィジュ・フィエールに語る、片方の頭が欠けると生きられぬ双頭の鷲の伝説は、白居易(白楽天)が長恨歌で詠んだ比翼の鳥に連なる永遠の愛が思い浮かびます。

本作を観ていると、シナリオ(戯曲)を書き監督したジャン・コクトーの才について考えが及びます。

詩、小説、絵画でも革新と普遍が両立した作品を創造したことを考えると、後の芸術に与えた彼の影響の大きさに畏敬の念を禁じ得ません。

『旅路の果て』(監督:ジュリアン・デュヴィヴィエ 1939)、『モンパルナスの灯』(監督:ジャック・ベッケル 1958)を撮ったクリスチァン・マトラのカメラがジャン・コクトーの芸術世界を映し出す、ファンタスティックな映像芸術としてこれからも観続けて行きたい作品です。

 

§『双頭の鷲』

亡夫の写真を見るエドウィジュ・フィエール↑

エドウィジュ・フィエール↑

亡夫の肖像画を見るエドウィジュ・フィエール↑

エドウィジュ・フィエール、ジャン・マレー↑

シルヴィア・モンフォール↑

エドウィジュ・フィエール、ジャン・マレー↑

ジャン・マレー、エドウィジュ・フィエール↑

ジャック・ヴァレンヌ↑

ジャック・ヴァレンヌ、エドウィジュ・フィエール↑

エドウィジュ・フィエール↑

エドウィジュ・フィエール、ジャン・マレー↑

エドウィジュ・フィエール、ジャン・マレー↑