イングマール・ベルイマン監督が1957年に38歳で撮った『野いちご (Smultronstället)』は、細菌学の名誉学位授与式に向かうヴィクトル・シェストレム演じる老教授の一日を描いた作品で、ベルリン国際映画祭金熊賞を受賞しております。

 

ヴィクトル・シェストレム(役名:イサク・ボルグ教授)は、細菌学を専門とする78歳の医師です。

長年の功績を認められたことにより、母校ルンド大学から名誉学位を受けることになったヴィクトル・シェストレムは、授与式前夜に自身の死を暗示するかの様な超現実的な夢を見ます。

人気のない街で、“針のない時計”を見て心臓の鼓動が激しくなったヴィクトル・シェストレムが後ろを振り返ると、そこにはスーツを着た男が立っています。

その人物の顔を見ると、男の顔は奇妙に歪んでおり、やがて男の軀は溶けてしまいます。

そこへ、鐘の音と共に馬車がやって来ますが、車輪が電灯の柱に引っ掛り車輪が外れてしまいます。 

やがて横転した馬車から棺桶が滑り落ちますが、棺桶に入っていた男を見るとそれはまさに自分の姿で、棺桶から伸ばした手がヴィクトル・シェストレムを捕まえようとした時に、彼は悪夢から解放されます。

家政婦に同行を断られたヴィクトル・シェストレムは、妊娠中の義理の娘イングリッド・チューリン(役名:マリアンヌ・ボルグ)を同行し、ストックホルムからルンドに車で向かいます。 

しかし、イングリッド・チューリンは冷徹で自己中心的な義父を煙たがっていると共に、夫のグンナール・ビヨルンストランド(役名:エヴァルド・ボルグ)との別居を思案中です。 

道中、ヒッチハイクで乗って来たイタリアヘ旅行中のビビ・アンデショーン(役名:現代のヒッチハイカー役と回想シーンの婚約者サーラ)と彼女のボーイフレンドのフォルケ・サンドクイスト(役名:アンデシュ)、そしてビヨルン・ビエルフヴェンダム(役名: ヴィクトル)を同乗させたヴィクトル・シェストレムは、ビビ・アンデショーンの面影が婚約者サーラに似ていることから、かつての彼女との野いちご摘みの映像と共に、弟に婚約者を奪われたことや、彼の無関心に耐えられなくなった妻が不貞を働いたことを思い出します。

すると、夫婦の運転するの車がヴィクトル・シェストレムの車と衝突し、夫婦の車が横転します。

事故車の運転を諦めた夫婦を乗せて走り出した一行でしたが、不仲な二人のやり取りに耐え切れなくなったイングリッド・チューリンは、彼等を車から降ろします。 

昼休みにヴィクトル・シェストレムは、自身の開業医時代の話や神についての話をします。

神学科の学生であるフォルケ・サンドクイスト (名, アンデシュ)に対し、信仰心の薄い医学生のビョルン・エルフヴェンダムは意見が対立してしまい、ヴィクトル・シェストレムは「あらゆるも神は存在する」と強い口調で云います。 

その後、ヴィクトル・シェストレムとイングリッド・チューリンは96才になる母親ナイマ・ウィフストランドを訪ねます。 

母親は、イングリッド・チューリンを息子の別れた妻ゲルトルート・フリッド (役名:カリン)と間違い、針の無い時計を孫に渡す様にヴィクトル・シェストレムに頼みます。

ルンドに走り出した車中で眠りについたヴィクトル・シェストレムは、 夢の中で弟の許へ去ろうとしている婚約者ビビ・アンデショーン演じるサーラ(2役)が「貴方にあるのは知識の山だけ」と云い、大学では試験監督に別れた妻ゲルトルート・フリッドの不倫相手との密会現場に案内される夢を見ます。

それらの夢を観続けたヴィクトル・シェストレムに、試験監督が全ての哀しみは手術により除去されたと告げた時、彼は目を醒まします。

 同じく死に関する夢を見ていたイングリッド・チューリンは、夫婦関係が綻 (ほころ)んでいる状況で子供を育てる勇気が無いことをヴィクトル・シェストレムに打ち明けます。

 

高校生の時にこの作品をTVで観たことをきっかけとして、映画監督に注目して映画を観る様になりましたが、 イングマル・ベルイマンが当時イサク・ボルグ教授を78歳で演じたヴィクトル・シェストレム (1879/9/20~1960/1/3)の半分の人生経験でこの作品を創ったことは、ある程度の年齢に達した今の自分は驚きを覚えます。

この映画の冒頭シーンを初めて観た時の印象は今も鮮明ですが、それは札幌の美術館で受けた三岸好太郎の「オーケストラ」(1933)や神田日勝の「室内風景」 (1970)のインパクトや、キング・クリムゾンの「太陽と戦慄」(1973)、イーゴリ・ストラヴィンスキーの「春の祭典」(1913)、前衛ジャズやチャールズ・ミンガス (b, conposer)の一連の演奏(※)から受けた衝撃と共に、青少年期に衝撃を受けた剣先鋭い芸術作品との出遭いの一つだったのではないかと思っております。 

『野いちご』やそれらの諸作品は、今日に至るまで鑑賞する度に異なる刺戟や衝撃を与えてくれますが、それはあたかも鑑賞する視点(角度)が変わることにより、立体感のある作品の中で異なる尖鋭的な形貌を覗かせるからなのかも知れません。 

この映画では、人生の晴れがましいイベントである名誉学位授与式の前日に、ヴィクトル・シェストレムの78年の人生を、幻想的な回想を走馬灯の様に投影していくロード・ムービーではないかと考えます。 

それにより、彼と彼に関わった人々の係わりと思いを浮かび上がらせることで、人生に関わる覚醒(気付き)も仄めかされている様に思います。

冒頭の超現実的な夢以外は、比較的具象的な映像が繋がりを感じさせながら積み重なって行く作品だと思われますが、親族が回想と現実の双方から畳みかける様にヴィクトル・シェストレムの心の殻を剥ぎ取っていく流れは、観る者の心を圧するのではないかと想像します。

あとこの作品では、懐妊したイングリッド・チューリンが、夫のグンナール・ビヨルンストランドが産まれてくる子に示す無関心さを糾弾します。

そのことは、他者への哀れみを感じさせない義父の冷淡さに対する、イングリット・チューリンの非難と言う点で繋がりを感じます。 

この映画を観ると、ルキノ・ヴィスコンティ監督が68歳で撮った『家族の肖像』(1974)同様、人生の最終着陸態勢を平穏に迎えようとする独り身男性を襲い、問い掛ける、現実としての過去を描いた作品の様に思えます。 

敬愛するイングマール・ベルイマン監督作品の中で、これまで最も繰り返し観て来た特別な一本です。

 

(※)「直立猿人」(1956) 、「道化師」(1957)、「メキシコの想い出」(1957) 、「ブルース&ルーツ」(1959)、 「ミンガス・プレゼンツ・ミンガス」(1960)、「オーヤー」(1961)、 「ミンガス・ アット・モンタレー」(1964) 等。

 

PS:この文章は2018年1月掲載の文章に粗筋を加えて書き直したものです。

 

§『野いちご (Smultronstället)』

ヴィクトル・シェストレム(悪夢のシークエンス)↑

ヴィクトル・シェストレム(悪夢のシークエンス)↑

ヴィクトル・シェストレム(悪夢のシークエンス)↑

イングリッド・チューリン、ヴィクトル・シェストレム↑

サーラを演じるビビ・アンデショーン(左)↑

ビヨルン・ビエルフヴェンダム、ビビ・アンデショーン、フォルケ・サンドクイスト↑

ビビ・アンデショーン、フォルケ・サンドクイスト、ヴィクトル・シェストレム↑

ビビ・アンデショーン(サーラ役)、鏡に映るヴィクトル・シェストレム↑

ゲルトルート・フリッド(左)↑

ヴィクトル・シェストレム(左)↑

グンナール・ビヨルンストランド、イングリッド・チューリン↑

ビヨルン・ビエルフヴェンダム、ビビ・アンデショーン、フォルケ・サンドクイスト↑

ヴィクトル・シェストレム、ビビ・アンデショーン(サーラ役)↑