イングマール・ベルイマン監督が1960年に製作した『処女の泉』は、アカデミー外国語映画賞とカンヌ国際映画祭特別賞を受賞した作品です。 

中世のスウェーデンを舞台にした宗教色の強い作品であることから、自分は同監督の『第七の封印』(1957)との関連性を感じますが、この作品に聞しては人間の多面性と暴状の描き方に特異性を感じます。

 

敬虔な基督教徒である地主のマックス・フォン・シドー(役名:テーレ)とその妻ビルギッタ・ヴァルベルイ(役名:メレーダ)は、娘のビルギッタ・ベテルソン (役名:カリン)と義女のグンネル・リンドブロム(役名:インゲリ)と暮らしていますが、ビルギッタ・ベテルソンに強い嫉妬感情を抱くグンネル・リンドブロムは密かに信奉する異教神オーディンに呪詛し、蛙を昼食のパンの中に忍び込ませます。

或る日、ビルギッタ・ベテルソンと養女のグンネル・リンドブロムは蝋燭を寄進する為に教会に向かいますが、途中で言い争いをして別れてしまったビルギッタ・べテルソンが一人教会に向かう途中、知り合った羊飼いの三兄弟に昼食を分け与えます。

パンから出て来た蛙の映像の直後に、長男と次男はビルギッタ・ベテルソンを襲って殺害し、刺繍の入った彼女の上着を奪い取ります。

その夜、三兄弟はマッ クス・フォン・シドーとビルギッタ・ヴァルベルイの家が殺害したピルギッタ・べテルソンの家とは知らずに、一夜の宿を請いますが、幼い三男は昼の殺害のショックから晩餐のスープを吐き出してしまいます。

教会から戻って来ない娘を心配するビルギッタ・ヴァルベルイに、次男が血の付いた上着を売りつけようとしたことから、マック ス・フォン・シドーは清めた体に庭木の枝葉を打ち付けた後、長男と次男に意趣返しをしますが、幼い三男も勢い余って壁に打ち付けて殺害してしまい ます。

翌日、草原に構たわる遺骸を見たマックス・フォン・シドーは、娘への想いと自身の無慈悲な行為への償いとして、この地に教会を建てることを誓います。

そして、娘の遺骸を運び出す為に抱き抱えようとした時、娘が横たわっていた場所が泉となり清水が湧き出します。

グンネル・リンドブロムは泉の水で自身の顔と目を清め、ビル ギッタ・べテルソンに抱いていた邪心を洗い流そうとします。

 

この映画を観て感じたことは、ビルギッタ・ベテルゾンの無垢とグンネル・リンドブロムの邪心が、人間の2面性をー可能性として一現している様に思えることです。

それは、髪の色と衣装があたかも白鳥オデットと黒鳥オディールの様に対比的に描かれていることから、その様な印象を自分は抱いてしまうのですが、幼くしてマックス・フォン・シドーに殺害される三男の存在には、復讐行為により引き起こされる無情の拡散が映し出されている様な気がします。

情報によると、イング マール・ベルイマンは黒澤明の『羅生門』(1950)を何度も観ていたとのことですが、黒と白を基調として木の葉の間から漏れる陽光を撮った宮川一夫のカメラに通じる映像を、スヴェン・ニクヴィストのカメラによるコントラストをシャープに捉えたモノクロ画像と燃え盛る炎の映像によリ、人間の聖邪を映し出しているのではないかと思います。

イングマール・ベルイマンが人間の翳の部分を宗教の光を用いてスクリーンに投射した作品として、これからも観続けて行きたい映画です。

 

§『処女の泉』