クシシュトフ・キェシロフスキ監督が撮ったフランス・ボーランド合作映画『ふたりのベロニカ』(1991)は、観る人の自由解釈を容認する、想像力を刺戟して止まない映画ではないかと思います。 

この映画を観ていると、映像だけでは解決出来ない観客の解釈に委ねられたシーンが含まれているにも拘わらず、それほど難解さを感じない作品であることもこの映画の魅力ではないかと考えます。

優れた抽象画や現代音楽作品も鑑賞者の想像力を促しますが、この映画は視覚と聴覚の両方に同時に働きかける映像芸術の様に思えます。

イレーヌ・ジャコブが二役を演じる、同じ日にポーランドとフランスで生まれた二人のベロニカの人生を追うドッペルゲンガー系列のストーリーですが、二人が出逢うのは冒頭の一瞬だけでありながら、観客は二人の相似を確認しつつ、 二人の人生を結びつける数奇な人物により彼女達が同一の存在であるかの様な運命の流れが提示されます。

 

怪我によりピアニストの夢を断念し合唱団のソプラニストになったポーランドのベロニカは、その傑出した才能により大舞台のソリストに抜擢されます。

一方、フランスに生を受け小学校の教員として過ごすべロニカは、小学校に来た人形劇とその人形師に惹き付けられます。 

その日以来、謎めいた贈り物が彼女の許に届けられ始めますが、そんな或る日送られてきたカセットテープに従いサン=ラザール駅のカフェに向かうと、人形師である絵本作家フィリップ・ヴォルテール (役名:アレクサンドル・ファブリ)が彼女を待って居ます。

 

評論家の川本三郎の指摘通り(※)、ベロニカを別の場所で生まれた一卵性双生児と見做すことが、監督の意図から離れることなくこの作品を鑑賞する 一手段ではないかと自分も考えます。

この映画が観る者の心に強く染み入るのは、二人を結びつける音(音楽)や映像(人形、雨、木々等)の揺らぎを感じさせる空気感が一致しているからではないかと考えます。 

クシシュトフ・キェシロフスキ監督は繊細かつ詩的な映像表現により二人をリンクさせることで、どちらかのべロニカが存在しなくなったとしても、残ったベロニカが二人のベロニカとして存在し続けることを示唆しているのではないかと考えます。 

二人のベロニカを演じるイレーヌ·ジャコブが透明感を醸し出しながらも人間性に溢れた演技が記憶に残る、末永く観続けていきたい好きな作品です。

 

PS  本件は2018年8月既掲載の内容を大幅加筆・変更したもの(差替え)です。

 

(※)川本三郎「クレジットタイトルは最後まで」中央公論社、1996年、p98

 

§『ふたりのベロニカ』