『ファイブ・イージー・ピーセス』(監督:ボブ・ラフェルソン 1970)は、アメリカン・ニュー・シネマを語る時に登場する作品ですが、個人的には評論家の川本三郎の自伝「マイ・バック・ページ」に登場する映像作品としての印象が強いです。
「マイ・バック・ページ」で、表紙モデルのサチヨがこの作品の核とも言える「父親への涙の告白」が、『真夜中のカーボーイ』(監督:ジョン・シュレシンジャー 1969)のダスティン・ホフマンの涙のシーンとの関連性を指摘したことが、当時の川本三郎に強いインパクトを与えたというサチヨの感性にとても感慨を覚える部分でした(※)。
最近、思うところがあって、アメリカン・ニュー・シネマの有名作品をいくつか観ておりますが、それらを観ていると、今と当時ではNEWのインパクトが違う部分がある為に、多少のバイアスをが必要なのかも知れないと考える時があります。
音楽史や美術史を振り返る時に、当時の他の作品群を念頭に置くことを忘れてはならないことと似ているのだと思いますが、それでも、今も語り継がれるニュー・シネマの名作(有名作)と呼ばれる映画には、作品としての「格」の様なものを感じてしまいます。
『ファイブ・イージー・ピーセス』は上流階級に育ったジャック・ニコルソン演じる主人公の中途半端とも言える人生に関する話で、自分が愛する女性には距離を置かれ、自分を大事にしてくれるカレン・ブラック演じるレイカ(彼の子を宿している)には距離を置いてしまうという無責任な存在なのですが、このままではどうにもならない男の人生模様が延々を描かれているにも拘わらず、不思議と拒否反応を生じずに観ることが出来た映画でした。
アルフレッド・ヒッチコック監督の遺作『ファミリー・プロット』で良い味を醸し出していたカレン・ブラックが主人公の彼女レイを演じておりますが、主人公家族の属する上流階級からドロップアウトして、石油掘削員となっても育ちの良さから、レイの振舞いに耐えられず、結局自分の住む場所が無い「疫病神」の様な存在になっていること気付き、無言の父親の前で涙を流してしまいます。
印象に残ったシーンとして、主人公の家族との食後の会話で高圧的に高邁な会話をする女性と、TVが観たいと主張するレイとの会話に耐えられなくなった主人公が憤る場面がありますが、そのシーンは家庭環境に反発して音楽を捨てて家を出ても、自分に残ったことは簡単な曲(EASY PIECE)を自分なりに弾くことしか出来すに、住む場所も見つけられないという主人公のジレンマが表現されていた様に思います。
(※)男が泣くという点に関しては、日本は古来から歌舞伎の演目では馴染み深いので(「俊寛」、「菅原伝授手習鑑」等)、然程インパクトは感じなかったのではないかと考えます。
PS 冒頭、『ブルース・ブラザース』(監督:ジョン・ランディス 1980)でもお馴染みの、タミー・ウィネットのカントリー曲「スタンド・バイ・ユア・マン 」で始まり、折々バッハやショパンが演奏されるという音楽的にも不思議なコントラスト効果を感じる映画だと思います。