何れにせよ深い意味はなく。 | Cogito ergo sum

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方法的懐疑から頭が離れない人のブログ
相変わらず変な記事多目なのはいつものごとく。

ゆる~くお願いしますゆるく。

どうも。お元気ですか?クロです。

気がついたら年が変わっていて今は・・・2016年。早いですね。
彼女からもらった身代わりのお守りがさっそく切れてしまったり、色々と幸先の悪いスタートな気がしています。
まぁ、良いのかな。深い意味はなかったんだろう。

ところで、「モラトリアム期間」という概念が心理学にはあります。本来、中学を卒業した時点で、義務教育は修了しています。したがって、社会に出る(=社会人として、あるいは大人として見られる)ことになるわけです。
しかし、私のような学生は学生として、社会に出ることを、ひいては大人になることを「モラトリアム」されているわけです。(要するに執行猶予ですね)
大人になることを猶予された私は子供なのでしょうか。それとも、大人にも子供にもなれない中途半端な存在なのかな。そんなことを考える次第です。別にこれに限らず最近の僕のモヤついた、濃霧の中に閉じ込められたような感覚の原因は多々あるのですが。特に深い意味はなかったんだろう。

最近、異様に「寂しさ」みたいなものを強く感じてしまう。決してもともとからそういうタイプではなかったはずなのだが。今年の冬は寒いですね。それが原因でしょうか。寂しさを何にぶつけようか迷ったり、そもそも寂しさはぶつけるものなのか思い悩んだり。難しいですね。それと、数年前から僕が感じ続けている寂しさの奥にある「取り残された感」、あれをどうにかしたい。未だに僕は成長できていないし、取り残されたままな気がしてしまう。

最近、確実に自分の母親にガタが来ている気がする。あの人は少し早足で歩き過ぎる癖がある。決して、良い人間でも好きな人間でもない気はする。ただ、それでもやはり自分の母親は母親でしかないので、どうであれ悪く言うのは気が引ける。ただ、決して尊敬しようと思ったことはない。あの人の"悪性腫瘍"が最終的にどういう方向に向かったのか、僕は知らない。手術したのかもしれないし、あるいは間に合わず放置したのかもしれないし。(まぁ、手術が間に合う段階であれば、手術というよりまるで鍼灸のような雰囲気で終わるのだろうが。)

最近、敗北感を感じてしまう。自分が新しいことをすればするほど、万能ではないなぁという当たり前の感想を持つ。それは良い。ただ、万能ではない自分が許せないだけだし。中途半端ならいっそ死んでしまいたい。

あぁー死にたいなぁ。もう死のう。
何れにせよ深い意味はなく。

では!また。