スマートさと堅牢性、"ハズレ無し"のクジについて | Cogito ergo sum

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方法的懐疑から頭が離れない人のブログ
相変わらず変な記事多目なのはいつものごとく。

ゆる~くお願いしますゆるく。



なんてことをブログに書き連ねて3日目、未だにまとまる気配なく。
このまま完成しないんじゃないのかというくらいである。

どうも、お久しぶりです。

最近の暑さで、ふと夏の日のことを振り返る昼下がりです。

いきなりだけど僕はどれだけ「転落」したのだろう。別に深い意味がある言葉でもなく、ここでいう転落は「転落人生」とか、とにかくそんなニュアンスの「転落」である。
考えてみれば、今立っている場所も、私の周り(特に親とかね)からしたらおかしな事態であったり、ひょっとして転落というのかもしれない。
ちなみに数字の上で話をするならば、ざっと30程度の転落である。何の数字とは言わないが。

もっとも、今の環境においても、それから少し前まで身を置いていた場所でも僕のような「転落しちゃった人」とされる境遇にある人なんて珍しくもない。
というか、僕の周りはほとんどそんな人に溢れてきた気さえしてくる。

別に環境に不満があるわけでもなければ、人に不満があるわけでもない。むしろ未だかつて、特に人に於いてはハズレくじを引いた覚えがないレベルで常に当たりくじを引き続けている人生な気さえしてくる。

こんな事を言うと私らしくなくて気持ち悪がられそうで迂闊には言えないし、わざわざ言う気もないのだけどただただ僕が関わってきた方については、相手がどうであれ僕は恨んだこともなければあえて嫌ったこともない。
もちろん、無理に好こうと思ったことはない。(もちろん、好かれようと思うことならば多々ある。まさにクズという感じか)

そんなことを連々と書いた過去の日記を漁っていたらこんな時間に。久々に何もしない日曜日になってしまった。
ただ何もしなかったおかげで幾つか得たものがある。

それはまた暇なときにでもまとめようか。


ひとつだけ
ひょっとしてこれが恋なのではないのかだろうか。
そういえば去年も似たようなことを考えてたな。

スマートさと堅牢性、僕はどちらを優先すべきだろうか。

この恋の詳細を察することが出来た君とはコーヒーでも飲みながらじっくりと話たいね、もちろんコーヒーを飲むことが目的じゃないから紅茶でも、あるいは日本茶でもなんでも良いが。