随筆 我らの勝利の大道 14 10/06/01

栄光へ先駆!「異体同心」合言葉に

今日も若々しく朗らかに!
ガンジーの「塩の行進」に学ぶ
広げよ歩みを対話を共感を

 広宣の
  正道歩めや
   共々に
  その名創価の
    歴史に残せや

 「歩くことで道ができる」とは、私の好きなアフリカの格言である。
 わが学会は「青年創価学会」である。清新な若々しい息吹で歩み進んできた。
 わが学会は「民衆創価学会」である。明朗な逞しい庶民の団結で、新たな勝利
の道を開き創ってきた。
 今日も、悩み苦しむ友のもとへ、足を運び、勇気と希望を送りゆくのだ。声も
惜しまず、励ましの対話を広げ、共に本有の仏の生命を湧き出していくのだ。
 我らは「青年の力」で勝つ。「民衆の心の結合」で断じて勝つ。
 カナダの詩人ルクレールは歌った。
 「幸福になるためには、勇気が必要だ」
  「他の命と絆を結べば、あなたの命は羽よりも快活になる」
 一人ひとりの人生を太陽の如く輝かせゆくために!
 一番苦労した友が、一番幸福になっていくために!
 悪世末法に、大仏法の人間主義の旗を掲げて、我らは団結と勝利の大行進を、
勇敢に闊歩していくのだ。

さあ出発前進だ

 「勇猛精進」とは、釈尊の出世の本懐たる法華経に説かれた行動の真髄である。
 インドが生んだ非暴力の父マハトマ・ガンジーも、〝勇気ある前進〝こそが、
世界を変えることを、示している。 それは、わが創価学会が誕生した八十年前。
すなわち一九三〇年(昭和五年)のことである。
 この年の三月十二日朝。マハトマ・ガンジーは、七十八人の門弟と共に、アー
メダバード郊外にあるアーシュラム(研修道場)から徒歩で出発した。
 目的地は、アラビア海に面したダンディーの海岸である。約四百キロの遠路を
歩いて行き、海辺に着いたら、そこで「塩」を手にするというのである。
 これが、インド独立への新たなうねりを起こした、あの「塩の行進」の始まり
であった。
 塩は、生命を維持するために絶対に不可欠である。ところが、当時の植民地支
配では、塩は政府の専売で、インドの民衆が独自に生産・所有することを厳しく
禁じていた。
 本来、塩はインドの自然の恵みである。それを、インドの民が自由に得ること
もできない理不尽さ!
 ガンジーは、植民地支配の不当性を、誰でも理解できる形で浮かび上がらせ、
〝だから、インドは独立を勝ち取らねばならない〝と、広く、また強く民衆に訴
えようとしたのである。
 そのアピールのために、彼が選んだ方法こそ、自ら先頭に立ち、非暴力の戦士
の隊列を組んで、村から村を巡りながら、約四百キロの遠い道のりを歩き通して
行くことであった。

学生も女性達も!

 海岸に出て、天然の塩を作る――そんな素朴な行為が、本当に独立運動になる
のか?最初は皆、首をかしげた。
 だが、六十歳のガンジーは、決然たる足取りで突き進んだ。その姿、その演説
に呼応し、行く先の村々から青年たちをはじめ、老若男女が次から次と、行進に
加わった。やがて数千人の隊列となっていった。
 沿道の農民たちは土ぼこりの上がる道に水を撒いて清め、「塩の行進」の進路
を、花づなや民族旗で飾って迎えた。
 まさに、一日また一日、歩みを広げ、対話を広げ、共感を広げ、そして草の根
の最も強い味方を広げていったのである。
 この民衆大行進の先導役を果たしたのは、誰か。
 ガンジーが創立した大学の学生たちであった。
 彼らは、師ガンジーの先遣隊として、村々を回って民衆の中に飛び込んだ。そ
して、正義の行進の成功を陰で支え抜いたのだ。
 そこに私は、民衆革命の先駆たる学生部の勇姿を想起せずにはいられない。
 折しも結成の月、六月を迎え、男子学生部は「先駆大勝利月間」、女子学生部
は「友に希望を!若き友情拡大月間」として、大躍進ヘスタートしたと伺った。
頼もしい限りだ。
 英知の君たちよ、勇んで先陣を駆けよ!君たちの活躍を民衆が待っている!
 また「塩の行進」では、独立運動の闘士である女性詩人ナーイドゥをはじめ、
多くの女性たちが大きな使命を果たした。
 「インドの女性たちをごらん。どんなにほこらしげに、かれらは闘争の先頭に
立って行進しているか!しとやかに、しかし勇敢に、不屈の闘志にもえて、かれ
らはみんなにさきがけて行くではないか!」とは、ガンジーと共に戦ったネルー
初代首相の感嘆であった。
 今、創価の女性たちが、広宣流布の最先端を歩んでいる。誰よりも朗らかに、
生き生きと!
 六月は、その世界一の平和と幸福のスクラム・婦人部が結成された、意義深き
記念の月だ。
 「太陽の婦人部!勇気・勝利月間」の晴れやかな前進を、私と妻は真剣に祈っ
ている。

正義は屈しない

 出発から二十四日後――目指す海岸に着いたガンジーは翌朝、浜辺に出て、天
然の塩を拾い集めた。
 師に続いて、民衆も浜辺に飛び出して塩を拾った。この勇気の行動は、急速に
全国へ波及していった。
 すると、監視していた当局が動いた。民衆が勝手に塩を作ることは法律違反で
あると、大量検挙が始まったのだ。容赦ない暴力が振るわれた。
 だが、人びとは怯まず、塩を拾い続けた。殴られても蹴られても、屈しない。
握りしめた掌には塩があった。塩の没収だけは、断固として拒否したのである。
 ガンジーは固く確信していた。ただ一人でも最後まで耐え抜くならば、勝利は
絶対に確実である、と。
 その信念の通り、いかなる権力の脅迫にも屈せぬ、正義の魂を胸中に堅持した
恐れなき民衆が、陸続と立ち上がっていったのだ。

     ◇

 民衆の中へ進め!
 民衆と共に進め!
 民衆の勝利のために!
 我ら創価学会の八十年の歩みも、同じである。民衆の中で、民衆と触れ合いな
がら、民衆の力を引き出してきたのだ。
 「悪口罵詈」「猶多怨嫉」の法華経の経文通り、学会が、どれほど嘲笑され、
侮蔑されたことか。どれほど中傷されたことか。どれほど中傷の石を投げられて
きたことか。
 苦悩の友のため、杜会のため、正々堂々、言論で戦う我らには、御聖訓に「悪
業の衆生に讒言させられて」(御書九三七ページ)と仰せの通りの、いわれなき誹
謗が浴びせられた。
 しかし、見よ!平和と人道のために民衆がつないだ手と手は、手は、今や、全
世界を包む壮太な広がりを持つに至ったのだ。

     ◇

 「塩の行進」は、運動の終わりではなく、さらに全インドへ勢いを増していく
スタートであった。
 一層の抵抗強化を指示したガンジーは、五月に官憲の手で投獄される。だが、
弟子たちが立ち上がった。門人は列を組み、当局の管理する塩の貯蔵庫をめざし
て行進したのだ。

師の魂は我が胸に

 女性の闘士ナーイドゥは、全同志を鼓舞した。
 〝師ガンジーの体は刑務所に繋がれても、その魂は私たちの中にある〝と。
 待ち受ける官憲が、堂々と前進する民衆に棍棒の雨を降らした。しかし、誰一
人として臆する者はいない。驚くべき精神の規律であった。
 居合わせた新聞記者は、「彼らはすっかりガンジーの非暴力の信条に染まって
いる」と驚嘆した。
 ガンジーと共に、なんと十万にも及ぶ人びとが投獄された。それでも、民衆の
大闘争は止まらなかった。
 それは、英国の記者が書いた如く、「獄中のマハトマが、今や、インドの魂そ
のものに肉体を与えている」光景であった。
 なぜ、かくも偉大な歴史を残すことができたのか。
 ガンジー研究評議会議長のラダクリシュナン博士の洞察は明確であった。
 「それは、恐れを知らなかったからです。歴史とは、勇気ある人間が、行動を
起こした時に創られていくものです」
 師子は、絶壁に立った時こそ、真に力を発揮するのだ。屈強なる負けじ魂で、
奮迅の力を出し切るのだ。

創価の80年を讃嘆

 なお、このマハトマ直系のラダクリシュナン博士は、わが創価の友を最大に讃
えてくださっている。
 「創価学会が発展を遂げてきた八十年の闘争は、一人ひとりの向上、社会変革、
世界平和を目的とする師弟の精神を示された、光り輝く模範です。
 この運動に連なる皆様は、目覚ましい成功と偉業を成し遂げた一人として、讃
嘆されるにふさわしい方々であります」
 我らの創価運動は、ガンジーの民衆闘争と時を同じくして、初代・二代の師弟
の共戦から始まった。
 先師・牧口先生の『創価教育学体系』を世に出すことは、弟子・戸田先生の誓
願であった。
 当時、編集も出版作業も思うように進まず、苦悩されていた牧口先生に、若き
戸田先生が進言したのだ。
 「私が、やりましょう!」
 ――師匠のことは、私が一番存じております。すべて、お任せください、と。
 これが、戸田先生の決心であり、自負であられた。いな、真の弟子たる者の覚
悟であろう。

師弟の劇は美しい

 師弟こそ、最も美しき人間ドラマである。峻厳なる魂の交流である。いついか
なる時も、歴史を創る絶対の力なのだ。
 私もまた、戸田先生と共にずっと歩んできた。永遠に不二である。
 どんな苦境も、戸田先生と一緒なら、楽しかった。負けるはずがないと自信満
々であった。
 「私の〝両目が閉じられる〝その最後の日まで、師の教えを叫び続けます。走
り続けます」
 ガンジーの高名な弟子であり、私が深き友情を結んだパンディ博士は、八十五
歳の時、毅然として語っておられた。
 この心は、そのまま、戸田先生の不二の弟子である私の変わらざる決意だ。

大九州よ安穏なれ

 戸田先生は「アジアの民に日をぞ送らん」と詠み、東洋広布を悲願とされた。
 恩師の心を継いだ私が、香港、インドをはじめアジアに第一歩を印してから、
明年で五十周年となる。
 戸田先生が、「よろしく頼む」と、東洋広布へ大いなる期待を託されたのは、
先駆の九州である。
 先駆とは勇気だ。先駆とは前進だ。先駆とは勇んで壁に挑む行動だ。
 その通り、大九州は、沖縄の同志と共に、「立正安国」の旗印を掲げながら、
あらゆる苦難に挑み、広布の先駆を切ってくれた。
 現在も、口蹄疫の深刻な被害のなか、勇敢な宮崎の同志は歯を食いしばって、
地域社会の依怙依託の存在となって戦っておられる。
 「大悪をこ(起)れば大善きたる」(御書一三〇〇ページ)、「わざはひ(禍)も転
じて幸となるべし」(同一一二四ページ)――大聖人の御約束は絶対であられる。
 断じて断じて勝ち越えていかれるよう、私も妻も祈り抜いている。
 大正時代、宮崎県に理想の天地を見出した作家・武者小路実篤は記した。
 「この世に生きる事は
 時につらすぎる事があるであろう。
 だがそれに勝ちぬいて生きる者
 そは勝者である」
 今再び、戸田先生と同じ心で「大九州よ、よろしく頼む!」と申し上げたい。

 永遠に
  異体同心
    合言葉
  わが大九州の
    威力はここにと

     ◇

 いかなる大河も、一滴の水から始まる。
 地域で職場で、自分のいるその場所で、一人ひとりが勇気ある行動を起こして
こそ、悠久の広宣流布の流れが開かれる。
 「仏法西還」を現実のものとしたインド創価学会の正義の陣列も、ごく少人数
からのスタートであった。
 だが、皆、深く教学を学び、地道な対話と励ましを重ね、信念の行動で道なき
道を開いてきた。
 誰人にも「生老病死」の苦悩はある。それを「煩悩即菩提」と転じ、重い宿命
をも大使命に変えていけるのが、偉大な仏法だ。
 失業の憂き目も、闘病の苦しみも、家族の悩みも、メンバーは、恐れず、臆せ
ず、勇気の祈りと同志愛の団結で、乗り越え、勝ち越えてきた。そして報恩感謝
の歓喜を、インド中に広げていったのである。
 この五月三日を祝賀する各地の支部総会にも、全国で四万三千人を超える内外
の友が集われ、功徳爛漫の体験が語られたと伺った。
 釈尊も、そして大聖人も、いかばかりお