言えるはずがない
母の再婚が決まった。父となる男性に左腕を掴まれ、無理矢理隣に立たされている少年の顔は長いクリーム色の前髪で隠れている。
「俺、お前嫌い」
初めて会った“弟”は、顔を背けてそう言い放ったのだった。
『言えるはずがない』
はじめまして、とあいさつをする間もなく拒絶され、濡れ羽色の髪を風になびかせていた少年は差し出そうとしていた手を力なく下ろした。友人達から「何を考えているかわからない」と言われることは多いが、母の勘というやつだろうか。
「じゅ、順也。そんなに落ち込まないで。これからよ、ね?」
「紫蘭、謝りなさい」
母の必死なフォローと“父”の言葉に続く全く心のこもっていない謝罪の言葉。順也は気を取り直して精一杯の笑顔を浮かべて手を差し出す。
「俺を無理に兄と思わなくていい。気軽に『順也』とでも呼んでくれ」
前もって考えていた言葉を口にするだけ。それだけなのに、初っ端で拒絶されたせいかひどく声が震えてしまった。母が口元を押さえて肩を震わせているのが見えて余計に恥ずかしくなり、小さく咳払いをすれば何事もなかったかのように姿勢を正した。自分もなかなかに切り替えが早い方であると言われるが、やはり母には敵わない。“父”が“弟”の頭を撫でる。ふと違和感を覚えたが、促されるままに口を開いた彼を見つめていると気にならなくなった。
「……紫蘭」
沈黙の後に名前だけ告げたかと思うと“父”の手をやんわりと外しておずおずと手を差し出してくれた。左利きなのだろうか。軽く握手をして離れていく手の甲に──
「……見てんじゃねぇよ」
視線を感じた紫蘭は舌打ちをして呟き、両手をポケットにしまい込んだ。まるで隠すかのように。これ以上見ていても仕方ない、と顔を上げた順也の目に映ったのは、長い前髪から覗いた鋭い瞳。
──美味そう。
などと口にできるはずもなく、静かに視線を外すのだった。
気に入らない。そう思ったのは事実だ。
「明日からお前の兄になる男だ。きちんと覚えておけ」
乱雑に投げられた紙の束。そのほとんどが写真だった。どうやって撮ったのかと言いたくなるような写真もある。半ば呆れていると拳が飛んできた。あからさまに避けるわけにはいかないので、わずかに身じろぎして急所は守った。痛覚が鈍っているために気付かない内に病院行き、なんてこともあったから。
「返事はどうした」
「……はい、お父様」
手を出す前に言えよ、なんて思うが、この男には何を言っても無駄だとわかっている。写真を拾い集めながら被写体を観察する。どれもこれも明らかな隠し撮り。そんな中でたった一枚気になったのは。
(……なんだ。笑えんじゃん)
自分と同じだと思っていたのに。勝手に期待して、勝手に絶望してしまう。最近の考えはこんなことばかりだ。いい加減に諦めてしまえばいいのに、と誰かが笑っているような気さえしてくる。これが中二病ってやつか?
「俺は野郎の相手なんざ死んでもごめんだからな」
そんなの、俺だって。そう言えたら、少しは楽になれるのだろうか。ゲスな笑みを隠すこともしない父を完全に視界から外して写真を見つめる。自分より二つ年上だと言っていたが、そうは見えない。顔立ちが幼いとか華奢だということはない。ただ、社会の汚れたものから引き離されているかのような純真さを感じさせる雰囲気があるのだ。
だから、実際に会ってみるとあまりの眩しさに逃げ出したくなった。他人用の笑みを浮かべた父に優しく捕まっていたせいで不可能だったが。
「気軽に『順也』とでも呼んでくれ」
そんなこと言われても。どうするのが“正解”なんだ。父が頭に手を伸ばしてきたものだから反射的に身体が竦んでしまった。気付かれていないようでほっとしたが、同時に落胆した。
もっと、何か。そうすればきっと──
(きっと、何だ?)
名前だけ告げてから差し出したのは、傷だらけの左手。お願い、見て。嫌だ、見ないで。相反する心の声。口から出たのは後者。何故か無性に悔しくて睨みつける。目が合ったかと思うと、彼は舌をちろりと見せた。まさか。
──この俺と喰い合おうっての?
“父”が求めていたのは、自分にとって都合のいい女だったのだろう。母が騙されていたのだと気付いたのは、あの日から丁度一年経った日のことだった。ギャンブル狂だった彼の影響で家計はくるしくなり、母が涙ながらに別れを告げた時、男は笑いながらこう言った。
お前から言い出してくれて助かったわ、と。
子供のように泣きじゃくる母を抱き締めながら男を睨みつけることしか、順也にはできなかった。泣き疲れた母をベッドに運び、リビングのソファにどっかりと座り込む。腕で顔を覆って脱力すると、頬を涙が伝っていくのを感じた。悔しい。自分は子供で、非力で、何もできないのだと。
「……クソが」
ぽつりと漏らして腕の力も抜いた。目を開けると、すっかり見慣れたクリーム色。一瞬、思考が停止した。
「紫蘭、だよな?」
「……何」
気安く話しかけるな、とでも言いたげな様子は相変わらずだ。こちらを見ようともせず、冷蔵庫から牛乳を取り出してコップに注いでいるのを見つめていると、いい加減痺れを切らした紫蘭が口を開いた。
「次の女は独身。俺がいる必要はないの」
自嘲気味に笑ってそんなことを言う彼に返す言葉が見つからない。テキトーに相槌を打って目を逸らす。最初に比べれば態度は軟化したとはいえどう接していいか分からない時が多い。紫蘭の過去は色々と複雑らしいが、そこに触れていいものなのかもわからない。そういえば。
──ごめんなさい……っ。
それを見たのは偶然だった。ふと夜中に目が覚めてしまい、カラカラの喉を潤そうとリビングへ向かう途中。紫蘭の部屋の扉がわずかに開いていて、震える声でひたすら謝り続ける声が聞こえてきた。そっと覗いてみると、大きな身体を丸めて頭を抱え、自身を守るようにした彼が呼吸もままならない風に繰り返し謝っていた。何に対して、誰に対して。そんなことは知らないし、正直どうでもいいとさえ思った。ただ、何かにひどく怯えている姿は見ていられなくて、落ち着くまで背中を撫でていた。
翌日、何も覚えていなかった紫蘭に戸惑いを感じたが、覚えていない方がいいこともあるか、と追及するのはやめておいた。
そんな出来事もあったからこそ、どこまで踏み込んでいいのかがわからないのだ。そもそも、彼は順也を嫌っているようだし。嫌いな相手にそうそう弱みなど見せるだろうかを見られることを良しとするだろうか。
(ないな)
自分だったら絶対にそんなことはしない。立ち上がって紫蘭の隣に並ぶ。
「……紫蘭、デカいな」
こうして並んで立つのは初めてかもしれない。自分も決して低身長というわけではないのだが、それでも紫蘭の方が上背があった。少し悔しい。
「190近い。アンタは筋肉質だよね」
男らしくていいじゃん、と褒められた。これも初めてのことだ。何だかやけに触れてみたくなって手を伸ばす。ピク、と肩が跳ねたのが見えて手を止めた。そういえば、初めて会った時も。確実とは言えないが、この仕草には覚えがある。昔、よくイジメられていた子に同じような癖があった。
「学校で何かあったのか?」
聞かないでいるのも限界だった。ふい、と顔を背けた紫蘭は「別に」と呟いて部屋に戻った。ご丁寧に鍵までかけたようだ。
(俺にできることは、何かないのか?)
近寄らないで。
こっちに来ないで。
アンタなんて産んだ覚えもないわ。
この、──
毎晩同じ夢を見る。それだけじゃない。まるで、今でもそこにいるかのように声が聞こえてくる。耳をふさげば直接頭の中に響いてくる。どうすればいいのかわからず、大好きな曲音楽を最大音量で聴いてみた。少しだけマシになった気がする。それから音楽プレーヤーが手放せなくなった。それが小学校の時。もちろん、授業中にも聴いていたので先生には怒られた。それでもやっぱり止められなかったけど。
「紫蘭」
鼓膜が破れるんじゃないかという音量で聴いているのに不思議と届いてくる“兄”の声。
「食事の時くらいは外せないのか?」
自分の耳を指差しで問いかけてきた彼に驚いたのは今でも覚えている。何も言わずにイヤホンを外してテーブルに置いた。あの声は聞こえてこない。まるで魔法のようだ。さすがは“兄”というところだろうか。
だけど、素直になんてなれなかった。すっかり嫌われているものだと思い込んでいる彼とはなかなか話す機会がなかったし、なんだか避けられているようでもあった。初めて会った時の自分の態度を悔やむ。
相変わらずギクシャクした毎日が続いていたある日、父親が消えた。丁度一年が経った日のことだと、後から教えてもらった。
「ごめんね、紫蘭くん」
「あなたに謝られるようなことはありませんよ」
未だに他人行儀だと言われるが、何も間違っていないと思う。所詮他人であることは事実だ。荷物になる紫蘭を置いて他の女の所に行ったのであろう父の顔が黒く塗り潰されていく。
(どいつもこいつも……)
舌を打って拳を握ったところに“兄”が来た。母親の様子を確認しながら視線だけで部屋へ誘ってくる。断る理由もないので大人しくついていく。部屋に入ると彼はベッドに腰かけて隣を軽く叩いた。少し離れて座り言葉を待つ。どこからかアルバムを取り出して開いて見せた。そこに写っていたのはピンクのうさぎのぬいぐるみを抱きしめた長髪の愛らしい美少女。かと思ったら。
「俺の幼少期の写真だ」
「マジかよ」
思わず素の反応が出た。超絶美少女が筋肉ダルマに。人体の神秘だな。全て口にしてしまっていたのか「失礼な」と笑っていた。
「少しずつでいいから、お互いのことを話していきたいと思う」
何に気付いたんだ。いや、知らずに言っているのか。どちらにせよ、ありがたい申し出だと思った。もう誰でもいいと思っていたところだ。丁度いい、こいつにしよう。口角が上がるのがわかる。きっと、鏡を見ればあの男と同じような顔が映るのだろう。ふと、視界の端には白いクマのぬいぐるみ。
(次は何をして遊ぼうか)
「わかったよ、“順也”」
──ねえ、シャルたん?
「地毛……?」
柔らかい髪を指ですきながら「あまり傷んでないんだな」と言えばそう返された。楽しげな雰囲気に一瞬だけ別の感情が入ったような気がしたのは気のせいだろうか。写真と実物を見比べてはケラケラと笑っている紫蘭。半分も隠れていれば表情も見えないな、と前髪をよけようとすると手を払われた。
「……悪い」
「あ、いや、ちょっとびっくりしただけだよ。こっちこそごめん」
そんなに俺の顔見たいの? と冗談めかして聞いてくるが、頼めば見せてくれるのだろうか。どうしよう、と紫蘭を見ていると気まずいのかモジモジし始めた。190近い男のそんな姿を見ても微妙な気持ちになるだけだ。できれば可愛い女の子にしてもらいたい。
「ちょっとだけなら、いいよ」
もしかしてこの子、すごく可愛いのでは? と思いかけて頭を振る。男に可愛いは絶対禁止。ダメ、良くない。と、いうのも、友人達によく「狙ってんの?」と聞かれてしまうからだ。何故かゲイだと思われている順也が男子に対して「可愛い」と評すると必ずと言っていいほどそう聞かれてしまう。もうごめんだと思い普段から気を付けることにしたのだ。黙ったままでいると紫蘭が目の前で指を鳴らしてきた。
「で? 見るの見ないの、どっち」
何故か少し不機嫌そうに言う紫蘭は。
──やっぱり、可愛い。
「ちょ、え、何……?」
戸惑いを隠し切れない声にハッとする。気が付けば狭くなってきたベッドに紫蘭を押し倒していた。彼は起き上がろうとしているがウエイトが違う。早々に諦めたようですぐに大人しくなる。自分でも予想出来なかった状況に混乱する順也を動かしたのは、先程までとは全く異なる冷め切った声で放たれた一言だった。
「ヤりたいならヤれば」
何の話かよくわからないがいい言葉ではないのだろう。まだ顔を覆い隠している前髪をかき上げて額に口付ける。すぐに口元を手で隠しながら体を起こしてベッドから離れた。額に手を当てたまま体を起こした紫蘭が呆気にとられたような顔でこちらを見てくる。
「……元気の出る、おまじない、だ」
幼い頃、父によくしてもらったのだと付け足す。三度瞬きをした彼は腹を抱えて笑い出した。ホントによく笑う奴だな、と思いながらよく見えるようになった顔を眺める。真っ白な肌にクリーム色の髪、そしてベリーソースのような紫の瞳を持った中性的な顔立ち。まだ幼さを残しているからこその危うげな魅力。腹の底でどろりと蠢く何か。
(何だ、これ)
初めて感じるナニカに怯えたように身体が震えてくる。舌先で唇を湿らせた紫蘭が歩み寄ってきた。腰の辺りからうなじまで指でなぞられてくすぐったいような気持ちいいような感覚にゾクゾクする。
「ぁ、紫蘭、それ、ヤだ……っ」
「本当は期待してるくせに。順也は“コッチ”だったかぁ……」
耳を喰まれやたら甘ったるい声を吹き込まれる。うなじから肩へ、腕を伝って手の甲、そして指先まで。じわりと滲むのは涙だけではない。
(何だ、これ……こんなの、知らない……)
怖い、助けて。伸ばした手が絡め取られる。
「大丈夫。ちゃぁんと優しくシてあげる。だから……ね?」
いいでしょ、シャルたん。
色素を持たずして生まれた紫蘭を、母親は自分の子だと認めたがらなかったらしい。だいぶ言葉を覚えた頃、よく知った言葉を“父”に言っただけで号泣された。あの時のぐちゃぐちゃの顔は今でも鮮明に思い出せる。なかなか友達ができなかった紫蘭のために“父”が買ってくれた真っ白なクマのぬいぐるみ。
『お前とお揃いだぞ』
そう言って笑ってくれた彼はその翌日天井からぶら下がっていた。足元で狂ったように喚いていた母親は「全部アンタのせいだ」と殴りかかってきた。
そんな母親の元から連れ出され、保護施設とやらに入ることが決まっても特に何も思わなかった。
「クマたん」
発した言葉もそれだけだったという。“父”の形見となったクマのぬいぐるみを抱え、食事は最低限。人と関わろうとはせず、押し入れに閉じこもって震えている。そんな子供だったらしい。
少しづつ変わり始めたのは学校へ入学する年頃になってのこと。さらさらと白い髪を風になびかせる少年に出会ったのがきっかけだった。
「……クマたん」
「クマ? ああ、そのクマさんと同じだね」
ぴ、と指を差して呟いた紫蘭に少年は愛想良く返してくれた。
「僕の名前はシャルル。君の名前は?」
シャルルと名乗った少年が目線を合わせて問うてきた。紫蘭は迷子札を指差す。じっと見つめてから「いい名前だね」と微笑んだ。二人はすぐに打ち解け、紫蘭は嘘のように明るく元気な子になった。学校から帰ればすぐにシャルルの膝の上でその日あったことを楽しそうに話し、寝る時になればこっそりシャルルの布団に入り込んでいたことも多かった。彼と出会ってから、紫蘭は毎日が楽しくて仕方なかった。
「またねー、しぃくん」
「またね!!」
級友と別れて駆け出す。と、背後から何か落下音が聞こえた気がして振り返る。しかし、そこには何もないり特に気にすることもなく、ただシャルルに会うために走る。
「ただいま!!」
「おかえり、紫蘭。ちゃんと手を洗ってからだよ」
「はーい!!」
紫蘭は言われるがままに手を洗い、お気に入りのぬいぐるみを抱えてシャルルの膝に乗った。初めは真っ白だったぬいぐるみも段々と汚れてきた。お風呂ごっこと称してこすっていたらぷつりと糸が切れる音がした。クマの耳の部分が裂けて綿がはみ出してしまっている。大事にしていたものだったからショックも大きかったのだろう。紫蘭はわんわんと泣き出してしまった。シャルルがなんとか落ち着かせて寝かしつけ、職員達に相談しにいく。みんなで出した結論は。
「クマたん!!」
枕元に置かれた真っ白なクマのぬいぐるみ。余程嬉しかったのか紫蘭は飛び跳ねたり走り回ったり。
「良かったね、紫蘭」
──その日から、再び何かが狂いだした。
「紫蘭」
布団の中で丸くなっていた紫蘭にシャルルが声をかけてくる。眠い目をこすって口を開けば、シャルルのそれによってふさがれていた。何をされているのかわからず、ただ息が苦しくて抵抗する。唇を離したシャルルは熱のこもった視線で舐めるように紫蘭の身体を見つめた。
「紫蘭は僕のこと、好き?」
こくりと小さく頷くと、彼は「良かった」と呟いてパジャマのボタンに手をかけた。首を傾げる紫蘭の唇に指を当て、一つずつゆっくり外していく。必死に声を抑えることとムズムズする何かが気持ち悪くてイヤイヤと首を振っていた。
気が付いた時にはシャルルはおらず、パジャマもしっかり着込んでいた。
(……ゆめ?)
だが、何かがおかしい。起き上がって辺りを見回すが違和感の正体が掴めない。クマのぬいぐるみに少し力を込めたら破れてしまった。しかし、翌日には元通り。それなのに。
(そうだ。昨日もいなかった)
突然姿を消してしまったシャルル。戻ってくることはなかった。
おまえはずっといてくれるのにね、“シャルたん”。
鼻先が触れ合うほど顔が近付いた時、紫蘭が過呼吸を起こした。確かこういう時は慌てるのが一番良くないはず。順也は高鳴った心臓を鎮めるために胸に手を当てて深呼吸をしてから紫蘭を抱き締めて背中をポンポンと叩いてやる。
「紫蘭、苦しいな。大丈夫だから、ゆーっくり息吐いてみよう」
吸って、吐いて、吐いて。リズムを作ってやれば少しづつ落ち着いてきた。脱力してのしかかってきた紫蘭は身長の割に随分と軽い気がする。普段の呼吸に戻ってからもなかなか離れてくれないので脇腹をくすぐってやった。
「やっ、ダメ……そ、れは……っ」
「苦し……っ」
さすがに身体の上でもだえられると圧迫されて苦しかった。失敗だ。散々笑い転げた紫蘭はすぐに立ち上がる。部屋から出ていく直前、顎に手を当てて何か考え込むような仕草を見せたあと。
「下着、替えた方がいいよ」
そう言って部屋から出ていった。下着どころかスウェットにまで染みが広がっている。全く、この歳で“お漏らし”なんて、情けなくて涙が出そうだ。
(……白い?)
下着を汚している液体は少し粘り気があって白いものだった。とりあえず新しい下着を履いてからズボンを探す。ちょうどいい物が見つからなかったのでパジャマに着替えてバスルームに向かう。下着を洗って洗濯機の中に放り込み、キッチンで冷凍室に入っていたアイスを取り出して紫蘭の部屋の前に立つ。ノックをしたが返事がない。代わりに少し荒い呼吸が聞こえてきた。一応声をかけてドアを開ける。カッターの刃を手の甲に当てたまま固まっている姿を見てしまった。これが世に言う自傷行為というやつか。静かに歩み寄ってカッターを奪い、代わりにアイスを持たせた。
「……順也はさ」
ぽつりと独り言のような声。じっと続く言葉を待っていれば、紫蘭は鏡の前に立って鏡面に指を滑らせた。輪郭をなぞるようにしていた手が離れたかと思うとこちらに向き直る。
「俺のこと、気持ち悪いとか思わないの」
「紫蘭のどこが気持ち悪いんだ?」
首を傾げて問いかける。紫蘭はサラサラの髪を梳いてみせたり前髪をかき上げてみたりしながら、自分の思う「気持ち悪いところ」をあげていった。失礼かとは思ったが、込み上げてきた笑いが抑えられない。
「なんで笑うの」
こっちは真面目に、と抗議する紫蘭を手で制し、笑い過ぎて浮かんだ涙を指ですくう。
「初めて会った時、お前を見て何を考えたと思う?」
「そんなの知らない。早く言ってよ」
アイスにかじりつきながら少しだけ元気になった声に急かされて言葉を続ける。
「チーズケーキみたいで美味そうだって思ったんだ」
俺の方が気持ち悪くないか、と笑えば紫蘭は何かに納得したような顔を浮かべてベッドに倒れ込んだ。
「初めて言われた。確かに気持ち悪いかも」
紫蘭も笑顔になった。落ち着いたみたいでよかった。ホッと息を吐いてベッドに腰掛けてアイスを舐める。何故か視線を感じたので振り返ってみると、紫蘭が物欲しそうに見ていた。紫蘭とアイスを交互に見やって差し出す。紫蘭はすぐには受け取らずに順也を見ていた。
「あ、りが、と」
何か間違えたかと思ったが、これで良かったらしい。壁に向かうように姿勢を変えた彼の耳が赤くなっているところを見ると、どうやら相当暑かったらしい。氷枕でも用意してやろう。部屋を出てリビングに向かうと母の静かな泣き声が聞こえてきた。どうやら父と話しているらしい。邪魔をしてはいけないので自室に戻ることにした。
どんなに顔を近付けても抵抗しようともしなかった順也。あれは何も知らない顔だ。あまりにも純粋で、自分の穢れが際立つようで我慢ならなかった。発作を起こしてしまい、なんとか抑えようとするが上手くできない。
「大丈夫」
順也の声が聞こえた。ダメだよ、触れないで。
──あなたまで汚れてしまうから。
夏休みが終わり、学校が始まった。新しく通う学校まで順也が案内してくれた。校門の前で別れて見送った後で校舎に入る。事前に教えられていたクラスの下足箱を探して靴をしまって職員室に向かう。担任の教師にあいさつをして、他の教師にも頭を下げた。あまり目立ちたくはないので紹介を省いてほしいとお願いすると了承してくれた。まぁ、無駄だとは思うが。
教室に向かって窓際の一番後ろの席に着く。窓の外を見ていると早速声をかけられた。女子が何人か集まって立っていた。できるだけ自然な笑みを意識して表情を作る。
「名前、なんて言うの? わたしはね」
「竹中紫蘭だよ。よろしくね」
知らない、汚い、いらない。女子の声を遮って名乗って授業の支度をする。自分の顔についてどうこう言うつもりはなかったが、多分いい方なのだと思う。切り揃えられた前髪に触れるようにして顔を覆う。これだから嫌だったんだ、と文句を言いたい気持ちはあるが。
『やっぱり可愛いな。キレイ、と言った方が合うか』
順也の声が聞こえてくるようだ。なんだか少し照れくさい。褒められることには慣れていない。だけど、どれだけ言っても彼はやめてくれない。至極当然のことを言うように真顔で褒めてくるから余計に耐えられなくなる。目の前に立っていた女子が何やら満足そうに頷いて去っていくのが指の間から見えた。まぁ、関係ないか、とシャーペンを取り出した。
(早く帰って順也に会いたい)
ガタンと大きな音が教室内に響き、クラス中の視線が一点に集中する。目立つようなことはしたくなかったのに。紫蘭は小さく頭を下げ、倒れた椅子を起こして席に着き、口元に手をやって爪を噛む。
(俺、今何考えた……?)
順也に会いたい、なんて。確かに嫌いな相手ではない。寧ろ好きな方だと思う。しかし、だ。思い浮かぶのはアイスを食べていた時の無駄に色気のある顔。これじゃあまるで。
(ヤリたい盛りかよ)
うんざりする程経験してきたつもりだ。そりゃ、まぁ過去と混同して襲いかけたけど。自分が彼を“そういう”対象として見ているのだと自覚してしまい、一日悶々として過ごすことになった。
そしてむかえた放課後。
「紫蘭くん、一緒に帰ろ」
有無を言わせぬような物言いに機嫌は急降下。しかし、それを隠す術ならとっくに学んでいる。笑顔を浮かべて差し出された手を握って帰路に着く。あまりの気持ち悪さに吐き気がするのを堪えていたせいか、着信に気付かなかった。校門の前に立つ三人の男子高校生。真ん中に立つ順也は一瞬大きく目を見開いたかと思うとすぐに踵を返して立ち去ってしまった。不思議そうに首を傾げた金髪の少年と慌てた様子で追いかける幼い顔立ちの少年。なんなんだ、あの態度は。どうせ帰る家は同じだ。帰ってから問い詰めればいいだろう。胸を押し付けてくる女子の腕からすり抜けるように離れて笑顔を貼り付けて「またね」と手を振る。
「ただいま」
返事はない。この時間だと買い出しに行ってる頃だろうから、家には順也が一人でいることだろう。
(いい機会じゃないか)
そう考えて再び悶える。今日は脳の調子がおかしいようだ。リビングを覗くと順也が制服のままソファに寝転がっていた。もう一度声をかけるが返事はない。ただじっと真っ直ぐに見つめてくる。
「言いたいことがあるならはっきり言ってよ」
痺れを切らして言えば、順也は体を起こしてすれ違ってからようやく声を出した。
「……楽しそうだったな」
ぷつりと何かが切れる音が聞こえたような気がした。
「それを言うなら順也の方だってずいぶん楽しそうだったじゃない」
腕を引っ張って体勢を崩し壁に押し付ける。やけにイライラして治まらない。順也はしばらく黙ったままでいたが、短く息を吐いて腕を伸ばしてきた。その行動の意味がわからずにいると抱き締められて驚いた。
「紫蘭はかっこいいから、すぐに彼女とかできるんだろうな」
──そう思ったら、寂しくなったんだ。
そんなことを言われてしまったら。
「だったら」
顎を掬って視線を合わせる。それから唇を奪い、告げる。
言えるはずがない。そう思っていた言葉を。