供養の息が途切れた寺がある。
ただ一歩足を踏み入れただけで、亡者の気が渦を巻いているのが分かる。
“寺”という形をしていても、すべてが有難いとは限らない。
供養が流れていなければ、そこはただの建物となるのだ。
その寺へ同行した家族は、駐車場で突然片目の視界を失った。
影がふっと湧き、 飛蚊症のように視界を曇らせたという。
また、私の実家の前にある寺からは、時おり“亡者の気”が家の方へと流れ込んでいた。
風ではなく、ただ “気の流れ”そのものが方向を変えて押し寄せてくる…そんな感覚だった。
あの頃の私は、ただ乗しかかってくる亡者たちの苦しみを受け取ることしかできなかった。
だが、代が替わったある日、家へ迫っていたその気配はふっと消えた。
まるで、あの寺にまとわりついていた者たちがようやく手を放したかのように。
寺が変われば、流れる気も変わる。
供養とは “形” ではなく
そこに宿る “意志” なのだ。

明玉