12月26日。午後6時15分。ヘリンボーンのコートの襟を立てて、ファーのついた手袋をした手で頬を覆っている。彼女は人を待っているようだ。広場の隅にあるライオンの像が彼女の背中を静かに見つめていた。
バッグの中から携帯電話の呼び出し音が聞こえ、彼女は電話に出た。電話の相手は彼女を待たせている人物らしい。
「ごめん、いま終わった。あと15分くらいで着くと思うんだけど、東口でいいんだよね?」
「そうよ。広場の方にいるわ」
「わかった。すぐに向かう」
彼女は電話を切ると、正面の大きな街頭スクリーンに目をやった。昨日までは必死にクリスマス関連のCMを映し出していたその画面も、今では新年を迎える準備で忙しい。
電話からきっかり20分後、彼、厚は姿を現した。黒のピーコートにジーンズ、ボーダー柄のマフラー。改札からずっと走ってきましたと言わんばかりの息の切れようだった。
「なかなか解放してもらえなくてね。ごめん。待たせたね」
「そうね、少なからぬ時間、私はここで待っていたわ」
玲子は彼を見ずに不満そうに言った。
「じゃあ、早いとこどこかに入ろう、顔が真っ赤だよ」
彼は彼女の不機嫌に気付いていたが、改めて謝ることなく歩き出した。彼女はバッグを持ち替え彼の後についていく。
靖国通りを渡り2ブロックほど東へ進んだところに目的のレストランはあった。7階建ての雑居ビルの5階。造りは比較的新しいようだ。二人がレストランに入るとウェイターらしき男が寄ってきて名前を尋ねた。彼が予約の名前を告げるとウェイターは二人を通路の左側にある個室に案内した。彼は彼女のコートを受け取り壁に掛けると自分もコートを脱ぎその隣のハンガーに吊るした。
「ゼミは定時に終わったんだけど、そのあと先輩に捕まっちゃってね」
厚は椅子に座ると、両肘をテーブルにつき話し始めた。
「そう。その先輩はあなたに予定があるのを知っていてワザと引き止めたわけじゃないんでしょう?」
玲子は顎に手をあて、彼の言い訳を待った。
「そう気を悪くしないでくれよ。遅れたのも悪いし、週末会えなかったのも悪いと思ってる」
「別に構わないのよ。何もクリスマスに会う必要なんかなかったわけだし」
「確かに、必要に迫られて会うような事はないね。そもそもその必要があったかどうかも疑わしい」
個室のドアがノックされ、ウェイターが今夜のコースメニューをテーブルに置き、飲み物の注文を取った。
「僕はシーバスをロックで」
「グラスワインを」
ウェイターは恭しく頭を下げ個室を出た。
「じゃあ12月の26日に私たちが一緒に夕食をとる必要はあるのかしら?」
玲子の機嫌はまだ傾いているらしい。
「そうだね。昨日渡せなかったプレゼントを渡すため、じゃ駄目かな?」
「あら、用意はしてあったのね。感心だわ。」
「もちろん」
厚は鞄からオレンジの紙袋を取り出すと玲子の前に差し出した。
「開けてもいいのよね?」」
「もちろん」
厚は繰り返し言った。
プレゼントは指輪だった。厚本人にはそのブランドの指輪が年頃の女性に非常に人気だという知識は全くなかった。店員に勧められるがまま購入したはいいが、厚に残ったのは今まで目にしたことのないような高額な領収書と、もし彼女が気に入らなかったらという不安だけだった。
玲子がオレンジの袋から小さな箱を取り出し、その箱を開けようとす。厚は心ならずも玲子の顔から視線を外すことが出来なかった。
「へぇ、流行には疎いと思ってたんだけどなぁ」
玲子は感心したように指輪を見ている。そしてリングを薬指にはめてみせた。
「サイズもぴったりだわ。意外ね、こういうところしっかりしてるなんて」
「それほどでもないさ」
厚は努めて平穏を装った。彼が玲子の薬指のサイズなど知っているはずがなかった。ショーウィンドウに並んだリングを取り出してもらい店員にサイズを聞かれたときには全身に汗が流れた。「大体あなたと同じくらいです」と彼が答えたのには店員も笑いを隠せないようだった。そして彼は9号のリングを受け取り代金を払うと急ぎ足で店を後にした。
「気に入ってくれたかな?」
「ええ、とても。厚くんにプレゼントのセンスがあることも分かったことだし」
玲子の機嫌の傾きは破綻しかけたメガバンクの経営状態からピサの斜塔くらいまで回復したようだった。
シーバスとグラスワインが運ばれてきて、二人はそれをそれぞれ半分くらい飲み会話を続けた。
「私ね、運命ってものも少し信じるようになったのよ」
「リアリストの君が?何かあった?」
「リアリストであることと運命を口にすることは両立するわ。それに私はリアリストというわけでもないし、ましてや運命論者でもない」
「だからといってロマンチストというわけでもないね」
厚は軽口を叩いたつもりだったが、玲子は気にせず話しを続けた。
「それでね、クリスマスに会えなかったことも運命で、来年のクリスマスも会えなかったとしても、たぶん、それも運命なんだと思うの」
「それはクリスマスにバイトを休めなかった僕を弁護してくれてるのかな?」
「そうじゃないわ。ただ。世の中のカップルはクリスマスの夜に二人で過ごして、お互いが出会ったことを運命だと感じるのよ。でも、私はあなたに会わずに家でエドワード・ケインズの小説を読みながら、こうしていることが運命だと感じたのよ」
彼女はグラスワインを飲み干すとアペタイザーを運んで来たウェイターにモスコミュールを注文した。
「随分と特異な感性の持ち主だね。ただ、来年のことはまだわからないよ。運命は先読みするものじゃなく振り返って思いを馳せるものだからね」
「そうかしら?じゃあ、例えば、私が来年のクリスマスプレゼントには時計が欲しいと言ったら、厚くんはどうする?」
「多分、時計をプレゼントするんじゃないかな?」
「多少無理しても?」
「そう、多少無理しても」
「そして来年のクリスマスプレゼントに時計をもらった私はそれを運命だと感じるのよ、きっと」
「残念ながら僕にはその感性は備わっていないみたいだ」
「女心がわからない彼氏を持つとね、そう考えないとやってられないの」
「それは、玲子が運命を語りだした原因は僕にあるといいたい?」
「いいのよ、おかげで聞き分けのいい女になれたんだから」
玲子はモスコミュールを半分くらい飲み干した。
「大体、女心のわかる男は世の中では希少な存在だよ」
「わかろうとする気持ちが大切なのよ」
「理解する必要はないってこと?」
「私は細かいことは気にしないの。細かいこと気にする男は嫌われるわよ、私に」
厚は黙り、いつのまにか運ばれていたスズキのグリルを食べ始めた。
メインディッシュを一気に食べてしまうと、厚はマルボロの箱をポケットから取り出し、その内の一本を口にくわえ火をつけた。Paul Smithのジッポライター。
「細かい事を気にしないのと、無口でいることは違うのよ」
玲子は自分の皿をテーブルの端に寄せ、グラスの水を口に含んだ。
「もちろん。ただ僕にはいま口にすべき言葉を見つけられないんだよ」
厚は顔を横に向け煙を吐く。
「そう、沈黙を楽しむのも大人の食事だわ」
玲子はやさしく微笑みもう一度グラスの水を飲んだ。
「そういう捉え方もある」
店内にはブラームスのバラードが流れていた。
「厚くんの煙草を吸う姿、好きよ。」
「ありがとう」
ウェイターが食後の飲み物をコーヒーにするか紅茶にするかを尋ねてきた。
厚はコーヒー、玲子は紅茶をそれぞれ注文した。
玲子は少し上機嫌だった。食後の紅茶が気に入ったのか。いや、彼女は厚がよくわからないという顔をして黙って煙草を吸っているのが姿が面白い。クリスマスに会えわなかった事に対するささやかな復習だろうか?
厚は必要以上に苦いコーヒーを一口飲むと、二本目の煙草に火をつけた。
会計を済ませ店を出ると外は凍てつくような寒さだった。風が少し強めに吹いている。厚が駅に向かいゆっくりと歩き出すと、玲子の方から腕を組んできた。自分の左側に寄り添う玲子を見て、厚は解けないクロスワードパズルをしている気分になった。分からなくても空欄を埋める努力ね。果たしてその努力は実を結ぶのだろうか?玲子の薬指に今夜渡したリングがはめられている事を厚は気付いていない。空欄が正解で埋まるのはまだまだ先の事のようだ。片付け忘れたコンビニのクリスマスツリーが二人の背中を見守っていた。
おわり