~SAKURA~
智子さんは大学を卒業して、実家のある広島に帰ってしまった。卒業式の日に花束を渡して、一緒に写真を撮った。智子さんは背が低いから、僕と並んで写真を撮ると、袴の半分くらいまでしか写らなかった。
「井砂くん、私が卒業して寂しい?」と智子さんは僕に訊いた。
「寂しいと思います」と僕は言った。
「本当にそう思ってる?」智子さんは僕の顔を覗き込むようにして言った。
「いまいち実感がないんですよ。智子さんは智子さんのままだし、また明日にでもどこかで会えそうですし」
武道館の周りは卒業式を終えて外に出てきた学生や父母で混雑していた。そこかしこから胴上げをする声や、校歌を歌う声が響いている。
「井砂くん、私だって年を取るし、大学だって卒業するのよ。いつまでもそばにいられないわ。これは実際に本当のことなの」と智子さんは言った。
「ええ、わかっています。今日が卒業式で、智子さんは卒業生です」と僕は言った。
「そうよ。でもね、井砂くん。私のこと忘れないでね。ちゃんと覚えていてね」
「忘れるわけないじゃないですか。三平方の定理を忘れても、智子さんのことは忘れませんよ」と僕は言った。強めの風が吹きぬけ、智子さんの髪をなびかせた。
「忘れられてしまうことはとても辛いことなの。私がそこにいたことを証明する方法は、誰かが私のことを覚えていることでしかないのよ。だから、忘れられてしまうことは存在しないことと同じなの。そういうのは辛いことだと思わない?」と智子さんは少し短めの前髪を押さえながら言った。
「思います」と僕は言った。
「井砂くん、きっとあなたは素敵な大人になるわ。なんとなくだけど、わかる気がするわ」と智子さんは言った。
「ありがとうございます。ご期待に応えられるように頑張ります」と僕は少し照れながら言った。
「本当よ。井砂くんは、今でも十分素敵だもの」
「智子さんは素敵な大人は好きですか?」と僕は訊いた。
「ええ、もちろん」と智子さんは言った。
「じゃあ、僕のことも好きですか?」と僕は訊いた。
「ええ、好きよ」と智子さんは笑ってこたえた。
「僕も智子さんのこと好きですよ」と僕は言った。
「ふふ、ありがとう」智子さんはそう言うと手提げ袋の中からインスタントカメラを取り出して、近くを歩いていた人に手渡した。
「井砂くん、写真撮りましょうよ。あなたと二人で写真撮ったことなかったわね」
「覚えてないですね」と僕は言った。
僕の左側に智子さんが立ち、武道館を背にしてお互いにポーズをとった。智子さんは両手に花束を抱えていて、僕は手ぶらだった。「はい、撮りますよ」とカメラを持った学生らしき男が大きな声で言った。シャッターを切る音は周りの騒音にかき消されてしまったが、フラッシュは光った。写真はちゃんと撮れたのだろうか。
「そろそろ友達と待ち合わせの時間なの。私、行くわ。井砂くん、今日は来てくれてありがとう」
「どういたしまして」と僕は言った。
「私、あなた出会えて本当に良かったと思っているのよ。本当よ」と智子さんは言った。
「忘れませんよ、智子さんのこと」と僕は言った。
「そうしてくれると嬉しいわ」智子さんは目を細め少し俯いた。僕と智子さんはお互いに次の言葉を探していた。昔、鷹ノ巣先輩は言っていた。言葉というのは「意味」として空間に存在しているもので、人間はその意味としての言葉を空間から取り出し、声としての言葉にしているのだと。このとき、僕らの周りには意味としての言葉がありすぎて、どれを取り出して声にしたらいいのかわからなかった。いや、そもそもその空間には言葉は存在していなかったのかもしれない。とにかく、僕らはしばらくの間お互いを見ることなく黙っていた。
「時間じゃないんですか?」と僕は言った。
「ええ、そうね」と智子さんは言って顔を上げた。
「じゃぁ、行くわ。今まで本当にありがとう。頑張ってね」智子さんはそう言うと、僕に背を向け人ごみの中に消えていった。智子さんはあっと言う間に見えなくなってしまったけれど、僕は溢れかえる人ごみをいつまでも見ていた。
~as time goes by~
数週間後、僕のもとに一通の郵便が届いた。消印は東広島。差出人の住所は書かれていなかったが、それは智子さんからの手紙だった。中には短い文章が書かれた紙と卒業式のときに撮った写真が入っていた。
『井砂くん、お元気ですか?私は何とか元気でやっています。きっとあなたは今頃4年生としてしっかり勉強をしているのではないかと思います。私のこと、ちゃんと覚えていてくれてますか?
p.s 今、私は広島にいます。でも、誤解しないでね、決してカープのファンなんかになったりしていないから。』
この手紙は僕を遠い世界へ飛ばしてしまった。智子さんが僕のそばからいなくなったことを遂に実感してしまった。僕の心のある部分は、智子さんが僕の前から消えたことで大きく損なわれてしまった。心の欠けた部分を補いたくて、僕は大きな声で何かを叫びたかった。でも、叫ぶ言葉は見つからない。僕の周りの空間には、意味を持った言葉がまるで存在しないかのようだった。
同封されていた写真の僕は半分目を閉じた状態のとても変な顔をしていた。半分しか目を開けていない僕は実際にはこの世界の半分も見えていなかったのではないだろうか。智子さんは僕と話しをするときよく目を細めたけれど、それは世の中の片面しか見えていない僕に合わせてくれていたのかもしれない。
僕は携帯電話を取り出して智子さんの番号を探した。発信のボタンを押して電話を耳に近づける。何も聞こえない。受話器から漏れてくる沈黙は、失われたパズルのピースが決して見つからないことを雄弁に語っていた。僕は一体誰に話しかけようとしているのだろう?僕は今なにをしているのだ?僕には見当もつかなかった。いったい僕は誰なんだ?僕の目にうつるのはいずこへともなく歩きすぎていく無数の人々の姿だけだった。僕はどこでもない場所の真ん中から智子さんを呼びつづけていた。
終