~SAKURA~

智子さんは大学を卒業して、実家のある広島に帰ってしまった。卒業式の日に花束を渡して、一緒に写真を撮った。智子さんは背が低いから、僕と並んで写真を撮ると、袴の半分くらいまでしか写らなかった。

「井砂くん、私が卒業して寂しい?」と智子さんは僕に訊いた。

「寂しいと思います」と僕は言った。

「本当にそう思ってる?」智子さんは僕の顔を覗き込むようにして言った。

「いまいち実感がないんですよ。智子さんは智子さんのままだし、また明日にでもどこかで会えそうですし」

武道館の周りは卒業式を終えて外に出てきた学生や父母で混雑していた。そこかしこから胴上げをする声や、校歌を歌う声が響いている。

「井砂くん、私だって年を取るし、大学だって卒業するのよ。いつまでもそばにいられないわ。これは実際に本当のことなの」と智子さんは言った。

「ええ、わかっています。今日が卒業式で、智子さんは卒業生です」と僕は言った。

「そうよ。でもね、井砂くん。私のこと忘れないでね。ちゃんと覚えていてね」

「忘れるわけないじゃないですか。三平方の定理を忘れても、智子さんのことは忘れませんよ」と僕は言った。強めの風が吹きぬけ、智子さんの髪をなびかせた。

「忘れられてしまうことはとても辛いことなの。私がそこにいたことを証明する方法は、誰かが私のことを覚えていることでしかないのよ。だから、忘れられてしまうことは存在しないことと同じなの。そういうのは辛いことだと思わない?」と智子さんは少し短めの前髪を押さえながら言った。

「思います」と僕は言った。

「井砂くん、きっとあなたは素敵な大人になるわ。なんとなくだけど、わかる気がするわ」と智子さんは言った。

「ありがとうございます。ご期待に応えられるように頑張ります」と僕は少し照れながら言った。

「本当よ。井砂くんは、今でも十分素敵だもの」

「智子さんは素敵な大人は好きですか?」と僕は訊いた。

「ええ、もちろん」と智子さんは言った。

「じゃあ、僕のことも好きですか?」と僕は訊いた。

「ええ、好きよ」と智子さんは笑ってこたえた。

「僕も智子さんのこと好きですよ」と僕は言った。

「ふふ、ありがとう」智子さんはそう言うと手提げ袋の中からインスタントカメラを取り出して、近くを歩いていた人に手渡した。

「井砂くん、写真撮りましょうよ。あなたと二人で写真撮ったことなかったわね」

「覚えてないですね」と僕は言った。

僕の左側に智子さんが立ち、武道館を背にしてお互いにポーズをとった。智子さんは両手に花束を抱えていて、僕は手ぶらだった。「はい、撮りますよ」とカメラを持った学生らしき男が大きな声で言った。シャッターを切る音は周りの騒音にかき消されてしまったが、フラッシュは光った。写真はちゃんと撮れたのだろうか。

「そろそろ友達と待ち合わせの時間なの。私、行くわ。井砂くん、今日は来てくれてありがとう」

「どういたしまして」と僕は言った。

「私、あなた出会えて本当に良かったと思っているのよ。本当よ」と智子さんは言った。

「忘れませんよ、智子さんのこと」と僕は言った。

「そうしてくれると嬉しいわ」智子さんは目を細め少し俯いた。僕と智子さんはお互いに次の言葉を探していた。昔、鷹ノ巣先輩は言っていた。言葉というのは「意味」として空間に存在しているもので、人間はその意味としての言葉を空間から取り出し、声としての言葉にしているのだと。このとき、僕らの周りには意味としての言葉がありすぎて、どれを取り出して声にしたらいいのかわからなかった。いや、そもそもその空間には言葉は存在していなかったのかもしれない。とにかく、僕らはしばらくの間お互いを見ることなく黙っていた。

「時間じゃないんですか?」と僕は言った。

「ええ、そうね」と智子さんは言って顔を上げた。

「じゃぁ、行くわ。今まで本当にありがとう。頑張ってね」智子さんはそう言うと、僕に背を向け人ごみの中に消えていった。智子さんはあっと言う間に見えなくなってしまったけれど、僕は溢れかえる人ごみをいつまでも見ていた。

~as time goes by~

数週間後、僕のもとに一通の郵便が届いた。消印は東広島。差出人の住所は書かれていなかったが、それは智子さんからの手紙だった。中には短い文章が書かれた紙と卒業式のときに撮った写真が入っていた。

『井砂くん、お元気ですか?私は何とか元気でやっています。きっとあなたは今頃4年生としてしっかり勉強をしているのではないかと思います。私のこと、ちゃんと覚えていてくれてますか?

p.s 今、私は広島にいます。でも、誤解しないでね、決してカープのファンなんかになったりしていないから。』

この手紙は僕を遠い世界へ飛ばしてしまった。智子さんが僕のそばからいなくなったことを遂に実感してしまった。僕の心のある部分は、智子さんが僕の前から消えたことで大きく損なわれてしまった。心の欠けた部分を補いたくて、僕は大きな声で何かを叫びたかった。でも、叫ぶ言葉は見つからない。僕の周りの空間には、意味を持った言葉がまるで存在しないかのようだった。

同封されていた写真の僕は半分目を閉じた状態のとても変な顔をしていた。半分しか目を開けていない僕は実際にはこの世界の半分も見えていなかったのではないだろうか。智子さんは僕と話しをするときよく目を細めたけれど、それは世の中の片面しか見えていない僕に合わせてくれていたのかもしれない。

僕は携帯電話を取り出して智子さんの番号を探した。発信のボタンを押して電話を耳に近づける。何も聞こえない。受話器から漏れてくる沈黙は、失われたパズルのピースが決して見つからないことを雄弁に語っていた。僕は一体誰に話しかけようとしているのだろう?僕は今なにをしているのだ?僕には見当もつかなかった。いったい僕は誰なんだ?僕の目にうつるのはいずこへともなく歩きすぎていく無数の人々の姿だけだった。僕はどこでもない場所の真ん中から智子さんを呼びつづけていた。


(4)
次の早朝、オレはまたゲレンデで独りタバコを吸っていた。今日も良い具合に雪が降り続けていて、ほとんどのものを覆い尽くしている。
ゲレンデが苦手って言ったけど、何かの跡が全くないゲレンデは好きだ。昨日滑っていた時にちらちら目に入った何かの片鱗を、また覆い尽くしてくれているから。
そうはいっても別に忘れたい過去がある訳じゃねえんだ。現状に不満がある訳でもない。仕事にも誇りを持っているし、むしろ、なかなか幸せな部類に当てはまるんじゃないかと思う。それなのに、今まで自分が通ってきた道、自分が歩いてきた足跡を見つめていると、何故かいたたまれない気持ちになっちまう。何故なんだろう。オレは一体、何をこの雪の下に埋めたんだ?
いつの間にかタバコが指先近くまで灰になっていた。それを携帯用灰皿にいれ、また新しいのを咥える。
「あら、早いんですね。」
気が付くと、昨晩の子が立っていた。今日はポニーテールにしていない。オレはちょっと残念だった。
「おはようございます。朝一番のタバコを吸いにね。あなたは?」
「私は旅行とかに行くとあまり眠れないタイプなんです。今日もそうで、朝早く目が覚めちゃったから。散歩にでもって。」
そう言って髪をかき上げる仕草をした。う~ん、これもまた良し。
彼女はオレの隣りに座って言った。
「朝のゲレンデって寂しいですね。」
「そうですか?」
「ええ。何ていうか、昨日私達が刻みつけた跡が消えてしまって、今日、不意に今の場所に立たされて、足下が覚束無い感じ。うーん、分かります?」
「うん、なんとなくだけどね。でも、あなた達くらいの歳ならまた新しく跡をつければ良いでしょう?オレはもう32だから、そんなことも言ってられないけどな。」
なんとなく発した言葉だけど、ふと、これかもしれないと思った。
「私達とそんなに変わらないじゃないですか。私、今年で29になるんですよ。嫌になっちゃう。」
少し驚いた。
「見えないな。25、6かと思ったよ。」
「本当ですか?でも私、歳相応の大人の女っていうのを目指しているから、もう少し上に見られたかったわ。お世辞にしてもね。」
と、悪戯っぽく笑った。
「本当だよ。けど、あなたの気持ちを察せなかったのは失敗だったな。」
「ふふっ。」
とあの微笑みを浮かべた。
「ところで、あなたはこういうゲレンデが好きなのかしら?」
「そう見えました?」
「なんとなくですけど。」
「そうかもしれない。あなたと違って、安心するんだ。自分の足跡がなくなっていると。自分が正しい道を通ってきたかどうか、考えなくて済むからな。」
昨日初めて会った子に何を言っているのだろう。でもなにか、彼女には人を素直にさせる力があった。あの微笑みのせいかもしれない。
「分かってるんだ。誰もが、自分が正しい道を通っているかどうかなんて分かっていないって。それは後で判断するしか出来ない性質のものだってな。だけど…。」
彼女はまっすぐこちらをみている。その瞳に吸い込まれちまいそうになる錯覚さえ覚える。
「だけど、多分、恐いんだと思う。もし振り返ってみたとき、その足跡から外れたところに何かが、夢とかそういうモンが転がっていたとしたら。」
終始、淡々と話し、そこまで言って言葉を切った。なんか、ちげぇな。もうちっと違うことを言いたいような気がするが、上手くまとまらない。彼女は何かを考えているように口をつぐんでいる。オレも黙ってタバコに火を点ける。雪には音を吸収する性質があるらしいが、世界中の音を吸収してもまだ余りある量の雪が、ここにはあるように感じた。
「確かに、自分の足跡を見詰めるのって不安になりますよね。お互い、結構な時間生きてきていますし。」
言葉を切ってこちらを見上げる彼女。
「でも、不安もあるけど、私は好きですよ。だって自分の頑張った姿っていうのも認めてあげるべきだと思いますもん。自分が積み重ねてきたものの上に自分が立っているんです。ねえ、それって素敵なことだと思いませんか?」
そんなたいそれたことはしていないんですけどね、と彼女は少し恥ずかしそうに付け加えた。
「けれど、もし、土台にあるものが崩れちまったら?そうしたら、上に立っているあなたも倒れちまう。」
「その時は、また積み重ねるんですよ。だってそれ以外に出来ることはないでしょう?」
「…それか。」
オレは思わず口走った。
「なにがですか?」
「あぁ、いや。あなたが今、事も無げに言ったことが、オレの本当の不安だったんだなって思って。…ひとつ聞きたいんだが、また新しく積み重ねるには遅すぎるってことはあると思いますか?」
「どうでしょうね。遅いかどうかを決めるのは、結局は自分しかいないのじゃないかしら。月並みな言葉で申し訳ないけれど。」
「いや、そんなことはない。当然のようにそう言える人は、きっとそれほどいないと思うよ。」
そうか。そうだな。そうなんだよ。
「ありがとう、おかげでスッキリしたよ。」
「良く分からないけど、お役に立てたようで良かったわ。じゃあ、私はそろそろ戻りますね。友達が心配してるかもしれないから。」
「ええ、ありがとう。」
最後にふわっとした微笑みを残して、彼女はホテルの中に戻っていった。




(5)
ようやく分かった。オレは、雪の下に埋めたものとか、どこかに置いてきたものが出てくるのが恐かったんじゃない。もしも夢とかそういうモンが転がり出てきたとき、もう新しく始めるには遅いんじゃないかって思うのが恐かったんだ。32にもなってってな。けどむしろ、たった32年で一体何が分かるってんだ?
夢から目を逸らすことが出来るだけのヤツなんてガキだ。そう、オレはいっちょ前に大人を気取っていたけれど、ただ言い訳をして恐いものを見ようとしないだけのガキだったんだ。『大人』っていうのは、今までの自分を否定するようなことにもしっかり目を据えられる、あの子のような人達を指すのかもしれねえ。
何故だか笑いが込み上げてくる。よし、ちょっくら後ろを振り返ってみるかな。あんまり長いこと目を逸らしてきたから夢とかも不貞腐れてかたちや大きさを変えちまってるかもしれねえけど、今のオレにはちょうどいいだろ。
まだまだ時間は幾らでもあるんだ。なんつーか、良い響きだよな。なぁ、アンタもそう思うだろ?
うおっし、あのオッサン共を起こしてくるか。キラキラ光ってるモンが転がっていないか確かめながら、今日はしっかりとこのゲレンデにオレの跡を刻みつけなくちゃな。
気が付くと雪が止んでいた。光を反射して輝くゲレンデは、まるで人々の夢の結晶のようだ。な~んて、オレも詩人だねぇ。
ん~、今朝もタバコがうまいっ。よし、そろそろオレも行くな。アンタも楽しくやるんだぜ!




〈ゲレンデ、足跡、…夢・了〉
(1)
目の前には純白の世界が広がっている。口から吐く白い息も、咥えたタバコの煙も、全て飲み込まれていくみたいだ。早朝のこの時間帯にはまだリフトは動いていない。停まったまま雪に覆われたリフト。雪に埋もれた家々。この光景は、いつもオレを不思議な気分にさせる。まるで、世界はこれから始まるかのようでもあり、また、とうの昔に終末を迎えてしまったかのようにも見える。
そろそろシーズンが終わるんだろうか?スノーボードに詳しくないオレには良く分からないが、ここでスノーボードが出来なくなる、つまり、この場所から雪がなくなることがオレには想像出来なかった。
オレは誘われれば大抵の事には参加する人間だと思う。だからといって嫌々来た訳ではないんだけどな。スノーボードは嫌いじゃない。ただ、ゲレンデって場所が苦手なんだ。ボードで転んだ拍子に転がり出てきそうでよ。忘れようとしてきた、夢とか、なんかそんなようなモンがだ。
なぁ、アンタ知っているかい?夢っていうモンはなくならないんだぜ。忘れたと思っても、諦めたと思っても、ふとした拍子に転がり出てくるモンなんだ。色々かたちや色を変え、時には大きさも変えるけど、決して消えてなくならねぇんだよ。昔は想像もしなかった日常に埋もれて、それに何の疑問も差し挟まなくなった頃、そもそも、オレにそんなものあったか分からなくなった頃、そいつは突然転がって来るんだ。
32になったオレは思う。その時、少しも慌てずに、まるで何もなかったかのように眼を逸らすことが出来るヤツのことを『大人』っていうんじゃないかってな。
「おーい、丈治!行くぞ!」
おっと、物思いに耽ってる場合じゃねえか。
「おう、今行く!」
オレは携帯用灰皿にタバコを落とし、雪道を必死に登って行った。



(2)
人間の身体ってのは不思議なもので、1年振りにすることでも思っている以上に出来るもんだ。そんな事を感じながら(主観としては)なかなか上手く滑れたことに満足して、初日を滑り終えた。
うおっ、既に足腰にきてやがる。こうやってオッサンへの階段を上がっていくと思うと感慨もひとしおだな。
ただ、歳をとるってことは意外と気になるんだが、それ以外に、先の事なんてあまり考えないもんだ。何の根拠もなく、今のままでいられるって思っちまう。良い意味でも、悪い意味でもだ。
「なんかよ、この旅館メシの時間が結構厳しく決まってるみたいだぜ。俺達の部屋はもうすぐだってよ。」
こいつとはもう随分長いこと付き合いが続いてる。今回のボードの幹事もやってくれてるし、なおかつ愚痴もこぼしたりしない。良くできた人間なんだよ。そういうことに疎いオレは大助かりだ。
「わかった。とっとと着替えてくるわ。」
言葉とは裏腹にゆっくり着替えて食堂に着くと、一緒に来たやつらはもう食べ始めてた。まぁ、待ってろとは言わねえけどよ、せめて乾杯くらいは…、なんて思いながら席に着くと、つながっている隣りのテーブルにいる集団に目がいった。おっ、OLのグループか?賑やかでいいねえ。その点、こっちは中年に手が届きそうな男が4人…。男だけも楽しいんだけどよ、ああいうのを見ると自分達のテーブルに目を戻すのが虚しくなっちまうよ。
「お~い、丈治、あんまりがっつくように見るなよ。恐がられるぜ?」
「バカ、そんなんじゃねえよ。」
なんて一応言いながら、そそくさと視線を戻した。
「ん~、ショーユねえか、ショーユ。」
「それがこのテーブルに置いてないんだよ。ほらっ、ソースで我慢しとけっ。」
「いや、コロッケにはショーユだろ。」
譲れないものってのはあるよな?こういうことには細かいんだ、オレ。
「ガキじゃないんだから我儘いうなよ。」
「いや、これはこだわりであってだな…。」
なんてバカなことを言い合ってるとすぐ隣りから声がした。
「お醤油ならありますよ。使いますか?」
横を見るとOLのグループの一人がオレに醤油を差し出してくれていた。
「おっ、ありがとうございます。」
オレは年甲斐もなくちょっとドキドキしながら受け取る。彼女はふわっと微笑んだ。歳は20代半ばってとこか?目鼻立ちはくっきりとしているが、唇がほんの少し厚くて、とても優しい顔をしていた。髪をポニーテールにしている。いいねえ、ポニーテール、好きなんだよなぁ、とか思いながら使った醤油を返した時、またふわっと微笑んでくれ、なんだかオレはむずがゆい気持ちになった。



(3)
といっても特にそれ以上の進展はなく(当然だが)、食事を終えた。
「ちょっと一服してくるわ。先に部屋に帰っててくれ。」
そういってオレは一人ロビーでタバコを吸っていた。何気なく周りを見るとさっきのポニーテールの子が通るところが見えた。
おっ、声を掛けるべきか?いや、でも醤油借りただけだしなあ。あんまり馴々しくされても困るか?だが、据膳食わぬはなんとやらって言うしな…。おっと、まだそんな段階には程遠いか。いや~、失敬失敬。
なんてことを考えながら一人楽しんでいると、彼女がオレに気付いて、なんと話し掛けてきてくれた。
「お醤油好きなんですね?」
きたっ、あの微笑みだ。
「いえ、醤油が好きっていうのではなくて、コロッケには醤油ってことなんですよ。」
「面白い方ですね。」
そういって彼女は笑う。
「こだわりって言ってましたものね?」
「まぁ、そんなたいそれたものではないんすけどね。子どもの頃のひい爺ちゃんの躾が行き届いていて、醤油じゃないとダメなんすよ。」
「ふふっ、やっぱり面白い人。」
よっし、笑ってくれた!実を言うとひい爺ちゃんの顔も知らないんだけどな。まぁ、許してくれるだろ。ありがとよっ、ひい爺ちゃん!
そんなやりとりをしてると彼女の仲間が呼ぶ声が聞こえた。
「真紀~?行くよ!」
「うん!」
と彼女は返事をする。
「では、失礼します。」
と会釈をしてくれた。
「ええ、おやすみなさい。」
オレがそう言うと彼女は踵を返し、仲間たちの元へと向かった。
オレはもうしばらくロビーでタバコを吸ってから立ち上がった。別に恋とか愛とかに繋げていきたい訳でもないんだが、なんか、こういうのって良いよな。オレは思わず緩んでしまいそうになる口許を隠しながら、エレベーターのボタンを押した。

~Calling~

「お願い、井砂くん」

智子さんは、熱い吐息混じりに僕に言った。普段の彼女からは想像もつかないほど色っぽい声だ。

「でも、智子さん、僕はこういうのに慣れていないんです」と僕は言った。

「大丈夫よ、井砂くんなら大丈夫」と智子さんは優しく言った。

「初めてなんです」と僕は言った。

「ふふ、可愛い。大丈夫だって言ってるでしょ」

僕の体は完全に固まってしまっていた。何でこんなことになったんだ。きっと何かの間違いだ。そうであって欲しい。僕の口からは上手く言葉が出てこない。

「ねえ、私そんなに時間があるわけじゃないの」と智子さんは僕を急かす。

「わかってます。でも、本当に大丈夫なんですね」と僕は訊いた。

「大丈夫よ」と智子さんは言った。

「わかりました」と僕は決心して目を閉じた。

「井砂くん、ゆっくりお願いね」と智子さんは言った。

「もう無理よ。井砂くん」と智子さんは息も絶え絶えに言った。

「だから、乗り気じゃなかったんです」と僕は言った。

智子さんはDVD録画の方法を教えて欲しいと電話を掛けてきた。僕はあらかじめ電話口で説明するのは難しいと言った。それにもかかわらず智子さんは僕に教えを求めた。

「もう少し上手く説明できないの?」と智子さんは言った。

「だから、初めてなんです、電話で家電の操作方法を教えるのは」と僕は言った。

「そうね、私が悪かったわ。今回は諦めるわ」と智子さんは言った。

「すみません」と僕は謝った。

「井砂くんが謝ることないのよ。悪いのは私なんだから」と智子さんは言った。

「今度、詳しく説明しますよ。直接会って」

「そうね、そうしてちょうだい。今日はもう遅いから寝るわ。おやすみなさい、井砂くん」

「おやすみなさい」と僕は言って電話を切った。

時計の針は午前2時を指していた。1時間近く話していたせいで喉がからからだ。僕は冷蔵庫からペリエを取り出し一気に飲み干した。

「やれやれ」と僕は言ってソファに腰を下ろした。

ここのところ疲れているらしい。僕の周りでは色々な事が日々新しく起こっては忘れられていく。大学が春休みなった。選挙があった。近所のマンションの耐震偽装が発覚した。牛丼を安心して食べられる日がまた遠くなった。どいうでもいいことから、かなり深刻な、少なくとも僕にとってかなり深刻なことまで色々と起こっている。僕はこの流れに着いていくことに疲れている。

「やれやれ」僕は部屋のオーディオの音量を上げた。スピーカーからはビル・エバンスの「Waltz for Debby」が流れている。僕はワルツを踊っている。大きな流れの中でステップを踏んでいる。好もうと好まざるを問わず、僕らはみな踊る。否、踊らされているのかもしれない。BGMは続く。たとえ僕が人生に疲れステップを間違ってもお構いなしに。

僕は部屋の電気を消し、ベッドに入り枕もとの読書灯を点けた。読みかけのカフカを読む。僕は気が付くと自分が虫になっていることを発見する。僕は土道を歩き、木から木へ飛び移る。餌を探す。でも何を食べたらいいかわからない。日が沈み夜になる。僕は泣く。訳もわからずに泣く。そして夜が明ける。僕はまた歩き出す。何処へともなく、また歩く。

~Shinning Day~

3月になり日に日に暖かくなってきた。僕は大学のキャンパスを歩いている。キャンパスといっても猫の額ほどしかない敷地の半分以上が工事用のバリケードで囲われてしまっているのでまったく大学らしく見えない。

「やれやれ」僕は約束の時間に間に合うように急ぎ足で学食に向かった。

「井砂くん」智子さんと鷹ノ巣先輩は一緒に窓際の席に座っていた。

「お待たせしました」と僕は言った。

「俺たちはもう昼飯は済ませたんだ。井砂は何か食べるか」と鷹ノ巣先輩は言った。

「いえ、僕も家で済ませてきましたから」と僕は言った。

「そうか。じゃあ早速話をさせてもらう」と鷹ノ巣先輩は言った。

「わかってると思うけど、私たちもうすぐ卒業するの」と智子さんは話を切り出した。

「ええ、わかっています」と僕は言った。

「そこで、お前に話しておきたいことがいくつかある」と鷹ノ巣先輩が続いた。

「たとえば?」と僕は訊いた。

「たとえば、世界の成り立ちとか」と智子さんは笑って冗談を言った。

「DVDの録画方法とか」と僕もその冗談に乗った。

「そんな何やかやだ」と鷹ノ巣先輩は言った。

「それで、いったい何の話です?」と僕は訊いた。

「来年のゼミの話さ。井砂もわかってると思うが、今の3年は若干層が薄い。特に6-4-3の連携が悪い。これじゃゲッツーが取れない」と鷹ノ巣先輩は真面目な顔をして言った。

「おっしゃっている意味が若干理解できないんですが」と僕は言った。

「来年のゼミのことだよ。高須先生は何も言わないが来年の入ゼミ試験で大量補強をしようとしてるのさ。特に守備に定評がある新人をな。お前が4番を打っても守りがまずければ試合には勝てない。つまりはこういうことだ」と鷹ノ巣先輩は言った。

「だからね、井砂くんには鷹ノ巣の後釜になって欲しいってことなの」と智子さんが分かりやすく説明した。

「そういうことだ」と鷹ノ巣先輩は満足げに頷いた。

「つまりは、新ゼミ生を阪神ファンにさせて、5月には六大学野球に連れて行けってことですね?」

「そうだ。理解が早いな。お前なら中央なんかに来なくてもいい弁護士になれる」と鷹ノ巣先輩は言った。

「中央に行くつもりはありませんよ」と僕は言った。

「そいつはいい心掛けだ」と鷹ノ巣先輩は笑って言った。

「井砂くん、私たちが希望を託せるのはあなただけなの。他の誰でもないあなたよ。わかる?私は現実の話をしているの。個人的にはゼミがどうなろうと知ったことではないわ。私は卒業するんだもの。でもね、目には見えない大きな流れというものがあるの。現実にね。それには誰も逆らえないわ。私たちはその流れに従うしかないの。ただその流れの中をどう泳ぐかは決めることができるの。自律的に。Understand?」

「わかったような気がします」と僕は言った。「智子さんは泳ぐんですね。僕は踊ります」

「何だっていいのよ。それが自律的であれば」と智子さんは言った。

僕らは少し黙ってそれぞれ考え事をしているみたいな顔をしていた。外は春風が強く吹いている。薄手のシャツではまだ寒そうだ。

「わかりました。やってみましょう」と僕は言った。

「ホントに?ありがとう」と智子さんは満面の笑みを浮かべ僕の手を取った。智子さんの手は小さく少し冷たかった。僕は嬉しそうに僕を見つめる彼女の顔を正面から見ることが出来なかった。鷹ノ巣先輩はそんな僕を見て一人で笑っている。「中央なんか行くもんか」僕は心の底からそう思った。

                                つづく

2月なのに3月中旬の暖かさの今日、僕は彼女といつものカフェで待ち合わせている。

僕は買ったもののつける機会のなかったネックレスをつけて、いつもより少しオシャレをしてそこへ向かう。

外は生暖かいおだやかな風が吹いて、冬の落ち葉が時折舞っている。僕はコートの襟を立てて足早に駅まで歩いた。切符を買ってちょうど来た普通電車に乗り込み、窓際の席に座る。

音楽を聴きながら、ぼんやりと外を眺める。いつもと変わらない町並み・・・ファーストフードの看板やデパートが見えた。変わらないはずなのに見ている僕はなぜかそわそわして、落ち着かない。

3駅目で電車を降りて、階段を上って改札を過ぎた。

彼女と待ち合わせたカフェは横断歩道を渡ったところにある。

店の入り口には白いチョークで「いらっしゃいませ」と書かれた小さなボードが置いてあり、その周りに鮮やかな赤やピンクのシクラメンの花が鉢植えにして並べられている。

横断歩道を小走りに渡ったので少し息を切らしながら僕は店の中を覗く。もう彼女は来ていた。

窓際の奥の彼女お気に入りの席に座ってブレンドコーヒーを飲みながらキョロキョロしている。

きっと僕の姿を探しているんだ、僕は胸がどきどきした。

「やあ、お待たせ。」

僕は平静さを装って普段どおりに言った。

「ああ!いらっしゃい。先に注文しちゃったわ、ごめんなさい。」

彼女は優しく微笑みながら言った。

「うん、どうぞどうぞ。かまわないよ。それにしても今日は暖かいね。春みたいだよ。」

「うん、本当ね。朝起きたら日差しが温かいものだから、春色の服が着たくなっちゃったもの。」

彼女は薄い黄緑色のニットを着ていた。

「その色似合ってる。」

「あら、そお?ありがとう。」

彼女はまた優しく微笑んだ。

僕はタイミングを見計らっていた。でもこういうことはいくら計算したってどうしようもないのだ。思い切って行動してしまえばいいんだ。

「あのさ、これ君になんだけど。」

僕は本当に突然切り出して赤い小さな紙袋に入ったそれを渡した。

「えっ?」

ぽかーんとして彼女は僕を見つめている。

僕はみるみる顔が暑くなって、泣きそうになった。

「今日さあ、バレンタインじゃん。だから・・・」

もじもじしながら僕は言う。

「男があげるのもありかなーって思ったりして・・・」

彼女はにやにや笑いながら仕舞いには吹き出した。

「こんなの初めてよ!いつもあげるばかり。びっくりしたけどすごく嬉しい!ありがとう!」

彼女は両手で大事そうに紙袋を受け取ってにこにこ笑っている。

「開けていいの?」

「もちろん。」

彼女が紙袋を開けると中にはチョコチップクッキーが入っていた。

「手作り?」

「まあね・・・」

テレながら言うと

「ステキ。」

と彼女は呟いた。そして青い紙袋をそっと差し出した。

「受け取ってくれますか?」

彼女は頬をピンクに染めて上目遣いで言った。

僕は腰を抜かしそうになった。

彼女はずっとずっと僕の憧れだった。まさかその彼女が・・・。

「ありがとう。」

僕は少し低い声で答えて紙袋を受け取った。

外を見ると路上の花壇の花が小さなつぼみをつけていた。

                                           おわり



あぁ、これで、終わりか。彼女の姿が完全に見えなくなると、不意にそう思った。もう二度と、今までのような関係で会うことはないのだろう。本当に大切な事は口にはしないものなのだ。彼女は絶対伝わらないと言っていたが、非常に稀に伝わることもあるんだ。悲しいとか辛いとは思わないが、少しばかり残念だ。
そんなことを考えながら彼女が降りた階段とは違う階段を降りていると、突然、身体の中で何かが溢れそうになっているのに気付き慌てて引き返した。
外に出て、ガードレールに座り俯く。似ているのかな?とオレは思う。いや、彼女が言うんだ。多分似ているのだろう。オレはただ、笑わないで嘘をつくだけだ。
目を上げると色々なものが映った。男、女、学生、会社員、ホスト、呼び込み、酔っ払いも素面も。この喧騒を形作る人達は、なんて立派なのだろう。分かっている、分かっているんだ。本当はオレにだってとっくに分かっている。自分が何に追われているかって事くらい。漠然とした、しかししっかりとした飢えに絡みとられている自分。そんな自分に折り合いをつける事を否定したいのではない。ただただ、目の前にいる様な人達に羨望して、喚き散らしているだけなんだ。
ふう、と大きく息を吐く。意外と気分は悪くない。彼女は電車に乗ったのだろうか?オレの中のグラスに何かを注いでくれた彼女を思う。オレはこれから少しは変わるのだろうか。相変わらずこの世の中のことは良く分からないが、少なくとも今は、このグラスの中身を大切にしようと思う。思わず鼻で笑ってしまう。オレにしては珍しく、なかなか前向きな考えだ。
グラスの中身が零れないようにそっと空を見上げてみる。誰かが四角く切り取ってくれた空は、オレにとっては調度良い。空には欠けた月が浮かんでいる。欠けているように見えるが、それはただ見えていないだけだ。この世の中っていうものは、概ねそういうものなのかも知れない。オレは軽く微笑む。
白い息、淡い光。酒を飲んだ後の月にしては、なかなか悪くなかった。




〈僕は笑って嘘をつく·了〉


「じゃあ、また飲もうな!」
あれから彼女からは何の音沙汰もなく、また、オレからも何の連絡もしなかった。あの夜から、オレはまだあの曖昧な空白に包まれているようだ。今夜は大学のクラスの連中との飲み会があって、そこには橘も日吉も、彼女もいた。相変わらずオレは曖昧に笑い、曖昧に頷いていたが、今日はあまり悪い気はしなかった。
「ねえ、ちょっと良いかしら?」
帰り道、振り向くと彼女がいた。こんな風に正面から向かい合うのは初めてのような気がした。
「あれから私、良く考えてみたんだけど。」
といって一歩踏み出す。
「きこりが泉の精に謝る、で間違ってなかったわ。わりかし良いわね、その表情。大人の狡さと怠惰さを表しているみたいで。」
「そう。良かった。」
「ねえ、あなたって私といる時はあまり笑わないわよね。」
「そうかな?」
「ええ。」
「笑うのって苦手なんだ。愛想笑いは得意なんだけれど。」
「嬉しい。じゃあ、私といた時は愛想笑いはしなかったのね?」
「うん、そうだね。」
オレは笑った。曖昧にではなく。
「私、前から思ってた事があるの。あなたってあの映画の主人公に似てるわよね。『僕は笑って嘘をつく』ってやつ。ねえ、あなた知ってる?」
「いや、聞いたことがないな。」
「そう。残念ね。とても良く似ていると思うのだけれど。」
そういって本当に残念そうな顔をする彼女。
「まるで、いつもロバに乗っているかのようなところが。馬ではないのよ。」
「そう。その映画は知らないけれど、なんとなく分かる気がする。君の言うことはいつも良く分からないのだけれど、でも、何故か良く分かるんだ。」
「そう?」と彼女は笑う。
「良く言われるわ。」
そういって踵を返し、ゆっくりと地下鉄の駅へ降りていった。



「ねえ、今夜泊まっても良いかしら?」
「構わないよ。」
橘と日吉と別れた後、携帯電話がオレを揺すった。彼女は今日も突然だ。行動するのに特に理由はないのだろう。もしかしたら、彼女も台本が与えられていない一人なのかもしれない。オレ同様、全てが周りと比べてちぐはぐにみえる。
ベッドでそんなことを考えていると、不意に言いたくなった。
「オレさ、君以外の娘とも寝ることがあるんだ。」
彼女の表情は見えない。その頼りない肩は、何を感じているのだろう。
「そう。頻繁に?」
「わりかしね。」
その平板な声音は何を発しているのだろう。
「ねえ、覚えてる?あなたが他の人と寝たいとは思わないって言った時の事。」
「うん。」
「私は、そうしたいと思う事は健全だと思うの。けれど、実際にそうするのは不健全だと思ってしまうの。面白いわね。これって矛盾していると思う?」
「いや、思わないよ。」
「そう。良かった。」
「ごめん。」
少しの沈黙の後、彼女は言った。
「そのごめんはあまり好きじゃないわ。それって猫がねずみ取りに謝っているみたいじゃない?」
「それってどういうこと?」
「つまりはそういうことよ。」
「良く分からないのだけれど、それってきこりが泉の精に謝っている、って感じかな?」
また少しの沈黙。
「ちょっと違うわね。」
「そう。残念だ。」
その後、しばらく曖昧な空白があった。居心地が良くも悪くもない、罪悪感とか、そのような感覚もない、曖昧な空白だ。
「今夜はもう終電が出ちゃったから、ここで寝かせてもらえるかしら?」
「もちろん、構わないよ。」
そして、目を瞑って次に瞼を開けた時には、彼女はもういなかった。




「そんじゃ、試験お疲れさん。カンパイ!」
「乾杯。」
そしてオレ達は、まあ、大学4回生らしい会話をした。どの授業が取れないと卒業出来ないだとか、あいつはどこに就職するだとか、研修はいつから始まるかとか、そんな話だ。
「あーあ、とうとうお気楽学生生活ともお別れだな。やんなっちまうぜ。なあ、中原?」
「そう?」
「なんだよ、もうちょっと学生したいとか思わねえか?」
「別に。何かやりたいこともないしね。」
「俺はもうちょっと今のままでいたいね。彼女も学生の内につくっておきたいしよお。まあ、お前はいるからいいよな。」
オレと彼女の関係は一体どのようなものなのだろうと時々思う。週に一、二回会って、食事したり寝たりして。確かに、継続した関係は彼女とだけだが、それでそういう関係になるのだろうか。少なくとも、はたから見るとそう見えるようだが。
この世の中には分からないことが多過ぎて、しばしばオレの頭を混乱させる。もしかしたら、オレだけある種の辞書を渡されなかったのかも知れない。
「相変わらずお前は淡々としてるよな。」
「淡々と、って言うより落ち着いてるわよね。」
「そうかな?」
「淡泊な男は嫌われるぜ?ちゃんと満足させてるのか?ん?」
橘はそういう話題が好きだ。このニヤニヤ笑いを何度見たことか。それに呆れた顔をする日吉も。
「アンタって本当下品なことばっかり言うわよね。最低。」
「俺はただ不満を感じさせてないか?って聞いてるだけですぜ、姐御。」
「誰が姐御よ!」
そして、このやりとりにも台本があって、二人はそれに従っているだけなのかも知れない。どおりで、オレには何の役割も与えられていない訳だ。
「どうした?もしかして、上手くいってないのか?」
「いや、そんなことはないよ。」
曖昧に答えるオレ。そう、台本に載っていない、何の役割も与えられていないオレは、適当で曖昧なアドリブを繰り返すだけだ。そして一生の内に、一体、後どれ程の回数そうするのだろうと思った。


「試験終了です。試験官が回答用紙を回収するまで……」
「よう、中原。試験どうだったよ?」
ざわめきが溢れだした大教室でオレに話し掛けてくる大柄な男。
「ああ、橘か。特にこれといって感想はないかな。別に落としても卒業は出来るし。」
「お前は相変わらずだよな。こちとら卒業が危うい身だってのによ。」
「試験はまだあるの?」
「いや、これで終わりだ。後は天のみぞ知るってヤツだ。」
そう言って空を仰ぐ仕草をする。相変わらず大袈裟なやつだ。
「ところでよ、今日暇か?久しぶりに日吉と3人で酒でもどうよ?」
「構わないよ。」
「今日は静香とデートじゃないんだ。」
いきなりの背後からの声にオレは振り向く。そこには妙に堂々とした女の子が立っている。
「日吉か。」
「なによ、その反応。もう少し何かないの?静香じゃなくて悪かったわね。」
「別にそんなことは思ってないよ。」
「まあ、日吉じゃ仕方ねえよな。おっ、そうだ、静香ちゃんも呼べよ。やっぱ飲み会には華がねえとなあ。」
「なに言ってんの。こんな可愛い娘捕まえて。私が一緒に行ってあげるんだから感謝しなさいよ。」
「へいへい。まあ、あれだな。妥協すべきところで妥協するのが人生を楽しく生きるコツらしいからな。」
「そうよ。だから私もここにいるんじゃない。」
「へっ、お互い様ってか?」
そう苦笑する橘とムスッとしながらもどこか楽しげな日吉。この二人の掛け合いを見ていると、いつも不思議と安心する。まるで、生まれてからずっと逃げ続けてきたモノが、ここにいる間は追って来ないかのように。
「二人の掛け合いは見応えがあるけど、そろそろ移動しないかな?」
そんな心地良さの中でも、立ち止まっていると何かに握り締められてしまうようで、オレは後ろを警戒してしまう。